松田誠思氏の講演〈「1916年復活祭蜂起」とW. B. イェイツ〉 'Easter, 1916'
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松田誠思氏の講演<「1916年復活祭蜂起」とW. B. イェイツ>(2014年11月15日、大阪・ナレッジサロン)が蜂起の決断と詩人の結構とについて鋭い洞察を示したこと。このことを、その鋭さの尖端の部分だけでも書留めておこう。
まず、蜂起の決断。どこから考えてもやるべきじゃなかった。歯車が狂いまくっていた。武器弾薬を調達するはずのドイツからの船が英国軍に撃沈された。やれば負ける。
負けると分かっていて、ではなぜ決行を決めたのか。有力な説は国民に「目覚めよ」の声を届けたかったとみる。
つまり、みずからは犠牲になっても国民を覚醒させることに価値ありと判断したことになるだろう。
詩人の結構。どういう組立てをこの詩 'Easter, 1916' に与えるか。
各連の最後の二行。そこにのみ、蜂起が現れる。
All changed, changed utterly:
A terrible beauty is born.
では残りは。日常生活である。つまり、蜂起を背景に置き、日常を前面に置いたことになる。しかし、量は質にあらず。二行が重さにおいて残りの行に釣り合う。それがこの詩の結構である。
人類の歴史は日常生活がベースである。蜂起ほどの画期的な事件が起ころうとも日常は変わらない。滞英中だった詩人が「震撼した」と漏らしたにもかかわらず。
ところが、第三連は様子がちがう。氏はこの連に作品のすべてがあるという。この連は他の三連と拮抗する重さを有する。
第三連では自然界のイメジがキーノートになっている。一刻も止まず動く生命の活動がそこにある。そこへ狂気じみた事が起こると、生命活動との対比が一時的に際立つことがある。連末の二行。
Minute by minute they live:
The stone's in the midst of all.
石をつくるのは人間の宿命である。これで歴史がつくり出される。自然と歴史との対比。
ここで、石そのものだけでなく、それが、それを含む大きな生命の流れの中にあるということが重要である。そのことをイェーツは悟った。
流れに一石を投じたことで生まれた「美」が、単にきれいなだけのものでなく、「恐ろしい」ものであること。そこに自然と歴史とのコントラストが凝縮していること。喜ばしいだけの美でなく、「恐ろしい美」として受入れざるを得ないこと。
第四連に入り、日常の感覚が戻る。「彼ら」革命家たちをよく知っていたイェーツにして初めて書ける詩行である。
日常のカジュアルさと革命の深刻さという二つのトーンの併置に、大義に殉じた者たちへの賛辞でも、革命の英雄たちへの告別でもなく、氏は歴史創成におけるパラドキシカルな神秘の詩を観る(a poetic discourse on the paradoxical mystery in history creation)。
演劇的設定を通じて表されたドラマティクな瞬間が、日常生活に隠されたリアリティの次元を露わにする('where motley is worn' / 'wherever green is worn' / 'the casual comedy')。
「変化」の相の意味合いが人間界と自然界とでまったく異なること。変化は、前者において多義的であり、後者において本質的条件である('Hearts with one purpose alone / Through summer and winter seem / Enchanted to a stone / To trouble the living stream'. 'The stone's in the midst of all'.)。