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アイルランド語と所有の観念


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初歩のアイルランド語で次のような文があるとする。

Tá leabhar agam.

もし、英語で書かれた本で勉強していたら、必ずやこう書いてあるだろう。

I have a book.

けれど、果たしてそうなのだろうか。

このアイルランド語は、<私のところに本がある>の意である。たまたまあるのである。必然的にあるのではない。だから、たまたま私のもとに寄寓しているものだから、私の子や孫が受継いで読んでくれたり、縁あって他の人の手に渡って読まれたりするのは、ごく自然なことなのである。

そんなことを想いだしたのは、紅玉いづきさんの『サエズリ図書館のワルツさん 1』(星海社FICTIONS)

サエズリ図書館のワルツさん 1 (星海社FICTIONS)

サエズリ図書館のワルツさん 1 (星海社FICTIONS)

を最近、読んだからだ。

この本は文章も面白いし、イラストレーション(simeさんによる)もとてもきれいで、さらに、本としての造りに神経が行き届き、本文の組み方やしおりの色に至るまで、まことに満足度が高い。

この始まったばかりのシリーズの第1巻には4話が収められており、第1話は軽やかで読みやすい。ところが、話が進んでゆくうちに段々深く重くなってゆく。

最後の第4話では、ついに、「特別探索司書」である主人公ワルツさんの「本性」が垣間見える。こんな言い方は美しい人に対して使いたくないけれど、<あの本はわたしのものだから>と宣告するワルツさんの確かに「本性」がそこには見えるのである。みにくい本性といってもいいかもしれない。

けれど、本当にそうなのだろうか。

本は何のためにあるのか。読まれるためにある。

読まれることを究極の形につきつめれば、誰もが読めることが望ましい。

そのことと、本がわたしのもの、との言とは矛盾するように見える。だけど、本当に矛盾するのだろうか。

ワルツさんのものであることは間違いない。また、それをワルツさんが望んでいるのも間違いない。けれども、それは、あくまで、「特別探索司書」として、その図書館の本は地の果てまでも探しに行く覚悟と表裏一体なのだ。

つまり、本はわたしのもの、即ち、本は図書館にあるべきもの、となる。所有が所有でない。まことに矛盾したありようながら、これしかないと納得させられるふしぎな人格をワルツさんは備えている。