Tigh Mhíchíl

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Zep, Planxty


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いろんな思いが渦巻く。はるかな昔、亡くなった松平維秋さん(ブラックホーク)がレッド・ゼッペリンは一枚目が最高であると力説していたことを想いだす。世評とはまったく違っていた。ぼくも一枚目派だった。


話変わり、プランクスティの一枚目はロック・ファンに衝撃を与えたという話を聞く。これがぼくにはどうも理解できない。ゼップの一枚目と比べると分かるが、それはプランクスティを誤解しているのではないかと今でも思う。


プランクスティはだれを軸として見るかで大きく違って見える。ぼくはリーアム・オ・フリンこそバンドの核であり震源地であると思っている。リーアムを太陽とすれば、ドーナルやアンディは陽光が眩しすぎる者のための色ガラスである。フィルターである。見やすくはしているが、リーアムの(リズム的、メロディー的)本質に何物も付加えていない。ドーナルやアンディにはそれぞれの世界があり、それはリーアムとは異質なものである。光を和らげて多くの人に近づきやすくする役目はドーナルのほうが秀でている。アンディはまた別の核を蔵しているので、本質的には交じり合わない。ただし、彼らがいるからこそ、プランクスティのドライヴ感が増していることは事実である。


ローマ教皇選出後、サンピエトロ広場にいたコンゴ共和国ジャンクロード・ムワラ神父(33)が語った言葉を想いおこす。「石は硬くないと意味がない。今は教会の原理に根ざした指導者が最適だ。彼ならアフリカの悲惨な出来事を克服できるのではと期待している」(朝日新聞4月20日付夕刊)。これをもじれば、ロックは硬くないと意味がない。ザ・バンドの《ロック・オヴ・エージズ》を見よ。ロックに期待するのは岩盤のごとき硬さである。世にいかに多くの悪あれど、それを克服するのは巌のごとき意思(石)である。


ゼップは一枚目が一番硬かった。


A が B に影響を与えているとする。だからといって、A は B 的であるということは言えない。B が反応するのは、B の側に原因がある。


A にプランクスティ、B にロック・ファンを入れてみたら面白いかもしれない。


ゼップが来日したとき、ぼくは音楽に対して先入観はなかった(と思う)。ブーレーズやベルクの現代音楽をロックと同じ地平で聞いていた。にもかかわらず、ゼップを目の前で見て、これはこの瞬間、世界最高の音楽であると確信した。


二枚目以降のゼップにはそこまでは感じない。或いは録音というものの限界なのか。逆に、プランクスティは老いてなお盛んというか、ますます硬くなっている。比喩的な意味で、プランクスティのほうがよほど「ロックしている」。しかし、これはロックに原因があるのではなくて、リーアムがいるからであるというのが、ぼくの今の考えである。リーアムのような音楽家は不思議なことに、汲めども汲めども尽きない泉のようなところがある。その泉へ降りてゆくと、底が見えるかと思えば見えない。さらに先がある。この泉は「硬い」。この泉の入り口は見つけにくいが、入れば、もう渇くことはない。ゼップは二枚目以降、枯渇してしまった。泉を掘る場所を間違えたのである。