久しぶりにアイルランド語のことわざ。簡潔な言回しです。
Ní féasta go rósta.
ロースト肉なければ宴にならず。
これは口調もいいですね。
類例は多い。
Ní saor go binn.
切妻*1こそ大工の試金石。
つぎは少し古い例。
Ní múineadh go deagh-shampla.
よき実例にまさる模範なし。
いろんな例を見ると基本構造はつぎのようになっている。
Ní A go B.
B あらずば A に非ず
どうしてこういう意味になるのか、ちょっと考えてみましょう。
まず、ní は何でしょうか。この綴りの語は多いのですが、どれでしょう。
この ní は is (コピュラ、繋辞)の否定形です。
では、go は? go という綴りの語もまた多い。
実は、この go はおなじみの go です。「〜まで」の意の前置詞です。
したがって、上の構造は「B に至るまでは A でない」というのが文字通りの意味になります。
こういう簡潔そのものの構文で達意の表現となるところが、アイルランド語のもっともアイルランド語らしい特徴の一つだと私は思います。
簡潔な言回しといえば、つぎのなんかは簡潔そのものです。
Níl fáil air.
それは見つからない。
かりに英語に直訳すると There is no getting (finding) on it. で、結局、It can't be got (found). の意味になります。
この構文は形式上 fáil が主語に見え(= Finding is not on it. とも訳せる)、その実、本当の意味上の主語は air の中に隠れた男性3人称代名詞です。これはあくまで、英語などの言語に置換えた場合ということになります。アイルランド語の感覚ではそれが(英語におけるような)主語という感覚があるようには思えません。前置詞と代名詞の結合形の中に埋もれてしまっているのですから。むしろ、何についてしゃべっているかを明示するためのトピック指示の働きがあるのじゃないでしょうか。日本語で言うと「は」に近い機能です。
すると、今度はこの文の中心はどこにあるという問題になる。さあ、困った。そういう分析は功を奏するのか。上の文は全体で一つのことを表しているとしか言いようがありません。
ひとかたまりで一つのことを言おうとすると、そのかたまりは短いほうがよいに決まってます。長いかたまりなら、それをのみこむのに時間がかかる。
今日取上げた諺も基本的にはそのような構造をしているのでしょう。短く短く。
しかし、この構文が頭にはいっていれば、たとえば go 以下を長くすることは可能です。
ところで、最近取上げたジァルムィジ・マク・ロフリン(ダーモット・マクラフリン)のアイルランド語は本当に見事でしたね。ああいうアイルランド語が話せるようになりたいものです。
*1:binn