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宮下奈都『羊と鋼の森文藝春秋、2015)

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宮下奈都は調律師の理想を表すことばを探った。

そして、詩人・原民喜のごく短い、千字足らずの随筆「沙漠の花」から次のことばを引いた。

 

明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体

本書では現代仮名遣いに直されている

 

このことばは、堀辰雄の「荒涼としたなかに咲いてゐる花のやうにおもはれた」作品「牧歌」から想を得た文体観だ。同随筆の最後に、原は「荒涼に耐へて、一すぢ懐しいものを滲じますこと」ができれば思い残すことはないと書く。

本書の主人公・外村は高校生のときに体育館で出会った天才的調律師・板鳥に感化され、調律師を目指す。それまで音楽の素養もなく、山や森の暮らししか知らなかった青年が、西洋音楽の洗練の極致であるピアノという楽器を調整する仕事に就こうとする。ふつうに考えれば無理筋だ。

その物語を宮下はいつもの繊細さをすこし抑え、調律師やピアニストの人間模様のなかに情緒ふかく描いてゆく。やや予定調和的なプロットながら、静かな幸福感がじわじわと読者の胸に満ちてくる。

ピアニストの立場から一言だけいうと、和音(わおん)とピアノの関係をくわしく綴るくだりは、やや現実味が薄い。もう一人の主人公、高校生の和音(かずね)を印象づけるためなのかもしれないけれど、理論的にはまったく不要に思われる。

それよりも、ピアニスト和音とのことをもっと掘り下げてもよかった。最初に外村が和音のピアノに惹かれたときから、和音がピアニストとしての天命に目覚めるまでをもう少し丁寧に書いてほしかった。この和音との出会いが外村の運命をも変えてゆくことになるのだから、そこにもっと余韻が生じるような奥行きがほしい。それでこそ、初めて沙漠に花が咲く。 
羊と鋼の森

羊と鋼の森