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覗いて見ることが読書という哲学者が読書を語る


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西田幾多郎「読書」

 

 京都に「哲学の道」と呼ばれる道がある。銀閣寺道から永観堂までつづく疎水ぞいの美しい小径である。近くに下宿していたのでよく通った。季節ごとに表情をかえ、歩きながら思索するにもってこいの道だ。

 その小径に哲学の名が冠せられる由縁が哲学者の西田幾多郎である。京都学派の創始者として多くの思想家に影響をあたえた。『善の研究』などの著書で知られる。高校の同級生だった鈴木大拙が西田の死に際し号泣したと伝わる。

 その彼が書いた読書論がどんなものか興味があった。だが、開口一番、「私は或は人から沢山の書物を読むとでも思われているかも知れない」が、「私の読書というのは覗いて見るということかも知れない」というのに、拍子抜けした。

 だが、そのあとを読むと、これはこれで読書というものの根本を深く考えさせるすぐれた文章と感じさせる。西田が特定の人の「書物を丹念に読み、その人の考を丹念に研究しようという考が薄い」といい、「私は全集というものを有っていない」と書くにもかかわらず。

 西田にとって「書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。一脈相通ずるに至れば、暗夜に火を打つが如く、一時に全体が明(あきらか)となる。偉大な思想家の思想が自分のものとなる」という。そのような理解が生まれるためには時期を待たねばならない。「ちょうど私の考えている所に結び附いて来る書物であると、非常にそれが面白いと思い頭に残るようである」というのである。これには思いあたるひとも多いだろう。

 西田が思想家に向きあうときに大事と思っていることは、その思想家の精髄をつかむということである。「大切なものを理解」することである。それを西田は「骨」と表現する。「偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを掴まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。」という。

 いかに字句のすみずみまで「正確に綿密」に読んだとしても、その根本をつかまなければ精密どころかかえって粗雑な理解になってしまうという。そのことを西田は「徒らに字句によって解釈し、その根柢に動いている生きものを掴まないというのも、膚浅(ふせん)な読書法といわなければならない。精密なようでかえって粗笨(そほん)ということもできるであろう。」という。

 このようなことを考えていた哲学者のことを思いつつ、また哲学の道を歩いてみたいものである。

 

読書

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