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森鴎外は翻訳で何を目指したのか


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森鴎外「翻訳に就いて」

 

 本名の森林太郎名で書かれた「翻譯に就いて」には翻訳者森鴎外の本音が瞥見される。

 翻訳者によって目指すところは異なると思うが、森鴎外ははっきりと自分の翻訳の目指すところをわきまえていたように見える。

 それを簡潔に本論の用語でまとめれば、「世間並」は目指さず、「努めて日本固有の物を避けて、特殊の感じを出さうとしてゐる」ということになる。

 どういうことか。前者は次の文脈で出る。

又文字や假名遣を一々世間並の誤字、假名遣に改めた上で載せる人もある。

これは鴎外に注文してきた序文をわざわざ世間並の用字、仮名遣いに直した上で印刷するということである。現代でもお節介な、そして恐らくは無理解な、編輯者や校正者がやりそうなことである。

 世間並ということは世間で通るということである。世間一般の例に類似するということである。しかし、それが本当に正しいかそうでないかは、また別の問題である。

 作家はおのれの信ずるところに従い、字を撰び、仮名を用いるのである。ひとつひとつに自分なりの定見が背後にある。それを総体として評価したうえでないと、字や仮名遣いの変更などはできるはずがないのに、世間並を錦の御旗として、蛮行に及ぶのである。と鴎外は考えたであろう。

 後者は次の文脈で出る。『ノラ』(イプセンの『人形の家』)の翻訳に関して。

ノラの食べる菓子を予はマクロンと書いた。それを飴玉と書けと教へて貰つた。これなんぞにはあつとばかりに驚かざることを得ない。Almond を入れた Macron は大きいブリキの罐に入れたのが澤山舶來してゐて、青木堂からいつでも買はれる。西洋の女がマクロンを食ふ場合と、日本の子供が飴玉を食ふ場合との相違はどの位違ふか、少し考へて見るが好い。誰やらの小説に、パリイの女學生二人がカルチエエ・ラテンの下宿あたりでマクロンを頬張りながら失戀の話をしてゐる所がある。あそこなんぞを飴玉にしたら、さぞ面白からう。日本固有の物で、ふさはしいものにして書けと云ふ教であるが、予なんぞは努めて日本固有の物を避けて、特殊の感じを出さうとしてゐる。それもふさはしい物ならまだしもである。日本固有の物にして、しかもふさはしくないと來てはたまらない。

これで完全に言い尽くされている。付加えることはなにもない。〔余計な雑学めいたことを附言すれば、青木堂は上野駅近隣の店舗の名で、北海道十勝は晩成社の「マルセイバタ」の商品なども販売していたらしい。それにゆかりの六花亭製菓の「マルセイバターサンド」などは評者も愛好するので親しみを覚える。〕

 

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六花亭のマルセイバターサンド(本文とは関係ありません)〕 

 

 ただ、なぜ特殊の感じを鴎外が出そうとするのかについて推測してみる。それは、日本固有の対応物をあてはめて訳してしまった場合、まず間違いなく百年後には、その訳は古くなるということである。食べ物の流行などはうつろいやすい。その時の人々に理解されるのを優先するあまり、異国の異なる習慣が違う文脈に置かれることは、できれば避けたい。

  さて、これが理解されるか。それはまた別の話である。

  

翻訳に就いて

翻訳に就いて

 

 

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