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段落の長い良質の散文


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 第150回芥川賞受賞作の小山田浩子「穴」について(『穴』所収)。

 ペソアがこんなことを言っている。「良い散文を書くためには、詩人でなければならない。というのも、よく書くためにはいずれにしろ詩人であることが必要だからだ。」

 すると、小山田浩子は詩人かもしれない。「穴」は良質の散文だ。それも段落の長い。

 さっと読むと、これまでの芥川賞受賞作(たとえば、『abさんご』)と比べて小品の印象を受ける。けれども、散文の質については強烈に印象に残る。

 「穴」という題でいったいなにを読ませるのかと読者はまず思う。だけど、読み終わってみれば、たしかに「穴」としかいえない。

 松浦あさひは仕事を辞め、転勤する夫の田舎に移り住む。といっても同じ県内の移動だ。転勤先は夫の実家に近く、結局、隣の借家に家賃なしで住まわせてもらうことになる。そのあたりをてきぱきと姑が差配する。作品の前半は、あさひが体験する新しい環境への順応あるいはとまどいが丁寧に綴られる。その文体は生活実感をしっかり捉えており、そのきめ細かさは女性読者の共感を呼ぶかもしれない。

 ところが、後半にかかるあたりから、現実のグリップ感が少しずつ変わり始める。現実にしっかり立脚しているという感覚が揺らぎ始めるのだ。それは目立った変化ではない。最後まで読んでもそんな変化があったことに気づかない読者もあるかもしれない。脳の活性化テストで見せられる「アハ・ムービー」のような、あるかないか判らないくらいの、しかし終わってみると結構おおきな違いが生ずる変化だ。

 その変化を一言で表すなら、日常に隣り合う異界への気づきといえるだろうか。異界というより、幻想というべきか。今日、たまたま小学校の横を通るとき、子供たちの甲高い、きゃあきゃあいう叫び声が聞こえた。積雪があるため、慎重に歩く大人たちを尻目に、子供たちは雪合戦に興じていたのだ。その子供たちの叫び声が、この作品の終わるころには幻聴と感じられるようになる。まことに不思議な感覚だ。

 いったいこの「穴」は何だったのだろう。 

 

穴