散文詩のように美しく深遠な短い戯曲
[スポンサーリンク]
宮沢賢治「マリヴロンと少女」
もとになった童話「めくらぶどうと虹」と比べると、かなり読みにくく、むずかしい。会話の内容はほぼ同じであるものの、ぶどうと虹の対話が、少女ギルダと声楽家マリヴロン女史の対話に変わったことで、哲学や宗教の問答のように見える。
しかしながら、散文詩を思わせる詩的な、流れるような表現がつづき、純粋に言葉として美しい。特に美しいのは、例えば次のような箇所だ。
そのありなしの日照りの雨が霽れたので、草はあらたにきらきら光り、向ふの山は明るくなって、少女はまぶしくおもてを伏せる。
そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたやうに飛んで来て、みんな一度に、銀のすゝきの穂にとまる。
めくらぶだうの藪からはきれいな雫がぽたぽた落ちる。
かすかなけはひが藪のかげからのぼってくる。
雨が上がり、はれ(霽れ)て草が光り山が明るく見える際の「あ」(/a/)音のたたみかけ(ありなし/雨/霽れた/あらたに/明るく/まぶしく)には、うっとりと引込まれる。もずが音符のように飛んでくるさまは、ジャヌカンの「鳥の歌」を想起させる。それに呼応するようにぶどうの木から雫が落ちる。まるで、音楽が聞こえてくるようだ。
途中に「〔以下数行分空白〕」とあるけれど、ここは「めくらぶどうと虹」を参照すれば補える。
全体として、むずかしい内容だけれど、惹きつけられる。
賢治の作品の中では難解な部類に属するだろうけれど、何度でも読みたくなる不思議な、美しい作品。