ピリッとするどころか、ゾクッとする芥川の作品
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石原千秋は「時評 文芸 5月号」(産経、2013年4月28日)においてこう書いた。
同誌に書いた二十五名の小説家は面の皮を剥がれたことになる。ちなみに、その二十五名とは、赤坂真理、阿部和重、池澤夏樹、絲山秋子、岡田利規、加賀乙彦、角田光代、鹿島田真希、金井美恵子、桐野夏生、佐伯一麦、柴崎友香、島田雅彦、笙野頼子、瀬戸内寂聴、高村 薫、辻原 登、津島佑子、西村賢太、古井由吉、古川日出男、保坂和志、町田 康、村田喜代子、山田詠美。
評者は同号を読んでいない。これが文壇の宣戦布告になるかどうかに関心もない。むしろ、石原がお手本とした大正文学のほうが気になる。そこで、大正文学の短編の傑作とされる芥川龍之介「歯車」について。これを書いた後に芥川は自ら命を絶つ。実際、この作品の最後の段落を読むと、絶筆以外の何物でもないような気がしてくる。〔執筆は1927(昭和2)年だから厳密にいうと大正文学ではないかもしれないけれど。〕
結論からいうと、ブノワ・ペータースとフランソワ・スクイテンの『狂騒のユルビカンド』(『闇の国々』所収)にも通底する世界だ。あるいは明川哲也の短編「箱のはなし」にも。つまり、狂気の一歩手前のような、闇が果てしなく広がる作品。「人生の中に地獄を見る」作品だ。異様に精神の隅々まで冴えわたって物が見え、これくらい見えていたら発狂せずにはおかないだろうというくらいの。だが、芥川の称揚する文学としての一流の性質も兼ねそなえているため、唸らされる。ウルフやジョイスにも匹敵する普遍性のある文学と思う。この調子で長編も書ければ世界文学の中に確固たる位置を占めたかもしれない。いや、別に短編でもその資格はあるのかもしれないが。
主人公が目にする半透明の歯車は、歯をとった形なら、見た人の印象を視覚化したものを見たことがある。ラファエロ前派の絵画のある作品(複数)だ。これについては不思議と論評したものを見たことがない。同じような体験をした人が少ないということなのか。それとも、単なる幻想と片付けられているのだろうか。けれども、似たような半透明の球体や球状のものというのは、ほかの文学者の作品にも出てくることがある。あれはいったい何なのだろう。芥川の作品においては、その歯車を目にすることと、頭痛が襲ってくることとは対になっている。
最後の章「飛行機」で松林を右手にして砂浜を歩くところの締めつけられるような感じは、黒田夏子の「虹」(『abさんご』所収)に似ている。主人公は都会のビルの間を歩いているときに「ふと松林を」思い出す。そのとき、視野にうつったものの描写が本作品での最初の歯車の言及だった(第1章「レエン・コオト」)。
これと似た描写が最終章に現れるとき、もはや、この最初の場合のような、いつでも日常に還れるという気配は失せている。そこにゾクッとさせられる。見事な作品だ。