「その日」の前後のひとの歩み
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重松 清『その日のまえに』(文春文庫、2008)
ばらばらの作品が集められているわけではない。ここに収められた順序でよむことに意義がある作品集。
テーマは、どれも死別だ。突然おとずれる別れではなく、あらかじめわかっている別れ。あらかじめ別れがくるとわかっていても、悲しみはへるわけじゃない。むしろ、よりふかくなるかもしれない。ただ、その別れに向かいあうひとびとは、それぞれ考えをめぐらす。ひとつとしておなじ別れはないから、ひとつとしておなじ考えもない。おそらく、答えもない。
おとなになってからの別れはまだ冷静によめる。が、子供時代の別れというのは、よむ側にうまくこころの準備ができない。
さらに、夫婦のどちらかがさきに逝く場合はまだ冷静によめる。が、おやこの別れは頭で割切れない。
本書におさめられたさまざまの別れをよんで、どうしてこれほど印象がちがうのだろうと思う。おそらく、自ら選びとった人間関係(夫婦など)と、そうでない人間関係の場合とでは、本質的にちがうのではないか。
ぜんぶで七篇おさめられており、うち、五篇はつながりがある。残りの独立した話のうち、「ヒア・カムズ・ザ・サン」はどこか、余韻がほかの話とちがい、後日談もふくめて、もっと読んでみたい気にさせられた。とくに、ギターの弾きがたりでグレゴリオ聖歌をうたうカオルくんのことが気になる。
もうひとり、気になる人物がいる。表題作三部作で登場する山本師長だ。妻を喪った主人公に対し、かたちだけ話を合わせるのでなく、深いところまで届く声をかける。死別の当事者ではない、いわば第三者のこうした声にはすくわれる。
カオルくんといい、山本師長といい、印象にのこる脇役をかかせたら、重松清は天下一品だ。
本書のような別れに際し、寺山修司なら、たぶん、井伏鱒二の詩を口ずさんでのりこえることだろう。それはこんな詩だ。
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ