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創作の苦しみが断章に


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梨木香歩『ぐるりのこと』新潮文庫、2007)



 ある物語(『沼地のある森を抜けて』)のための種が芽生え思索を続ける過程で時々の随想を綴ったエッセイ。その物語との対比や対照としてなら道筋がすこし見えるけれども、そうでない限り断章以上でも以下でもない。ただし、断章なりに読ませる箇所がある。作者個人の思想と思われるものを吐露した部分は好悪が分かれるだろう。思想として論じぬいたものでなく中途半端に語られるので、思想としては論じることが難しいからだ。

 文体に苦労の跡がみえる。エッセイというものをどういう文体で書けばよいか模索している感じである。こういうエッセイを書こうという構想のもとに文章を練り上げたという印象はない。小説に較べると本エッセイは完成度の点で物足りない。

 著作の時系列からいうと、本エッセイが連載された「考える人」2002年夏号から 2004年秋号の時期と、3つの小説、すなわち、「フリオのために」(「小説新潮」2003年6月号、のちに加筆修正され小説『沼地のある森を抜けて』に収録)、小説『家守綺譚』(2004年1月)、小説『村田エフェンディ滞土録』(「本の旅人」2002年10月号から 2003年10月号)の時期とが重なる。

 本エッセイの最後の章「物語を」に顕著に現れるが、この頃、著者の物語を書きたいという希求は相当に強い。自他の境界を越えて交換(あるいは交歓あるいは交感)が起きるところをエッセイで書けるところまで書いた挙句、ここから先は物語でしか書けぬということになった。

 しかし、その物語は、流離感をかかえた個が帰る場所を思うノスタルジーの表現であり、地霊と言霊の力を総動員して、一筋の明晰性を辿ることを目指すものである。困難な道である。命を削るような仕事であり、その間に、息抜きや骨休めとして他の執筆(『家守綺譚』『村田エフェンディ滞土録』『ぐるりのこと』)をしてバランスを取らねばならなかった。それらは本来発表すべきものではなかったともいえる。

 自他の境界は主に三つのモデルで示される。ぐるりと中心、外部の自然と内なる自然、地霊と言霊。この三組はパラレルである。

 ノスタルジアであるからにはノストス(帰郷)であり、目指すべき対象というか土地がないと物語にはならぬ。そこで出てくるのが陸地と河川の境界にある沼地である。それがどこから浮かんだかもはや判らぬと著者は述べるが、あるいは芥川龍之介の「沼地」ではなかったかと評者は考える。梨木は芥川について「命がけの実験」という文章を書いている。

 以上のような著者の苦闘がいかに沼地と発酵という奇妙な物語に結実してゆくか。そのような観点から『沼地のある森を抜けて』を再考したくなる。その着想が本エッセイの「ぐるりから汲み上げた世界の分子を、中心でゆっくりと滋養に加工してゆく」という文章とからむ。著者の究極の目的は「世界の物語化」なのだろう。


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