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月と闇と海と━━ある写本師の物語


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乾石 智子『夜の写本師』創元推理文庫、2014)



 乾石智子の長篇ファンタジー小説。その名義での第一長篇だ。

 本格的な魔法ファンタジー。とはいえ、魔術師(魔道師)どうしの対決でなく、魔術師対写本師という、一種の異種格闘技対戦になっている。それもお互いに一千年にわたる生まれ変わりを通じての戦いという、壮大なスケールのものである。

 壮大なのは、時間軸や舞台だけでなく、テーマにおいてもそうだ。大きくいえば、男性原理と女性原理とのからみ合うような戦いともいえるし、月と闇と海の魔力の争奪戦のようでもある。さらに、魔法の働き方の本質をめぐる、各種流儀の間の戦いでもある。

 主人公カリュドウが「夜の写本師」として駆使する本の魔法も面白いが、本書に登場する魔法の中で最も興味深いのは月にからむものだ。その魔法を駆使していたのは、カリュドウの千年前の姿であるシルヴァインだ。シルヴァインから月の力を奪ったアムサイストは、その五百年後、生まれ変わってエムジストとなり、シルヴァインの生まれ変わりであるイルーシアから闇の力を奪う。その際、月の力が闇の力をおさえこむさまをこう描く。「地上の影という影がふきはらわれ、物陰に潜んでいたものすべてから闇の力が奪われ、打ちたおされ、目を伏し、怖れ、戦慄した」と。

 この月の力の描写は、月にからむ神話的伝承の奥底に降りてゆくような迫力があり、他の箇所でも随所で月に関する鋭い洞察が見られる。

 カリュドウの対決する相手である魔道師アンジストは、前世においてアムサイスト、エムジストの名を持っていた。アンジストをめぐる鍵の一つが紫水晶であるが、それは別名アメジスト(amethyst)であることを頭の片隅に入れておくと、この壮大な対決が分かりやすくなるかもしれない。

 長篇ファンタジーとして圧倒的な迫力と濃密な物語を備えており、日本を代表するファンタジー作品に数えられる傑作。

 Kindle 版の電子書籍で読んだのだけど、巻末に井辻朱美による解説が二篇入っていて、これがファンタジー研究者にとっておそらく必読の文献になっている。

「魔術の物語、魔術としての物語━━魔術ファンタジーの来し方行く末」はファンタジー文学史だ。ヒロイック・ファンタジー(コナンなど)から説き起こし、ファンタジー小説というジャンルの確立(『指輪物語』)、魔法とは何かを初めて正面から語りはじめた《ゲド戦記》五部作、ルドルフ・シュタイナーの神秘思想に依ったミヒャエル・エンデらの魔術的世界観、個人の意図の力が効能を発揮する《ハリー・ポッター》シリーズ。こうした歴史を通じて、魔術について語ることが「世界のなりたちに対する人間の視座を語ることであり、ファンタジーの中心課題である」ことを明快に整理する。本書との関連では、やはり予想通り、耳なし芳一の物語への言及もなされる。そもそも、〈夜の写本師〉の設定が「いかにも日本人らしい発想」であると指摘する。

「魔術による魔術のための魔術的な物語(文庫版のための補遺)」は、乾石智子の魔術的な物語が「魔法の様態(モード)によって書かれている」という驚くべき指摘をする。その文体は「文章のどこからが誰かの心の中の幻で、どこからが現実の事象なのか、すきまなく編みつむがれる文体」なのであると。そして、この乾石の文体は、最近の映像技術で可視化された「商業的ファンタジー」とはまさに対極をゆく、「『小説』以前の、言葉のファンタジーが復興する」方向を目指すものであると述べる。重要な指摘だ。