現代詩をめぐる小池昌代らの対談+佐藤優のキリスト教観
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小池昌代と四元康祐とは十年前にも対談というか対詩している(『対詩 詩と生活』)。
今回は日本の現代詩や詩人であることをめぐって対話している。四元がふだんはドイツ在住であることもあり、2015年に小説『偽詩人の世にも奇妙な栄光』を出したこともあり、そういうドイツと日本の違いとか、詩人が小説を書くことといった、やや周辺的なことがらも扱われる。
だが、何といってもおもしろいのは、現代詩の「中の人」としての視点、小説でなく詩にしかできないこと、等々を、評論家的にでなく、高レベルの実作者としてさらっと述べているところだろう。「関係者」が読むとドキッとするのではないか。いわば業界内幕話にちかい。
現代詩の中心
一般読者がいちばん知らないのは、「現代詩の世界が世間とパラレルになっていない」ことだろう。「詩集が売れて、外からは本流のように見えるだろう詩人たちは、現代詩の世界では脇のほうに寄せられて」いることなど、まったく知られていない。
これには理由がある。中也にしても谷川にしても、中心的な人ではない。「そこから外れているから世間に読まれる」。つまり、「現代詩の中心に入れば入るほど、誰も読まなくなる」のである。
現代詩のエントロピー
四元が小説を書いた理由をこう語る。現代詩の世界に少しずつ入れてもらったが、「気がついたらその世界自体のエントロピーが低下していた。このまま老後をこの世界だけで生きていったら寂しいんじゃないか」と。だから、ちょっと別の世界である小説に行きたくなった。
小説と詩
四元は小説が生まれる場についてこう語る。「詩に比べると、小説は地上的で世俗的で、人間との関わりの中で生まれる」と。
ヨーロッパでは、たぶん日本とちがい、詩人は生きていける。なぜか。四元は「社会全体として、詩人というものを神聖なものに言葉を捧げる存在と考えているから、最低限の生活を保障してやろうという感じ」だと言う。日本の場合は、「世の中から超越的な感覚が希薄になってきているから、きついと感じ」ると。
小池は「詩人には本質的な冷たさのようなものがあるかもしれない」と言う。「人間には、すごく不親切で無愛想な言葉が必要な時がある」と思うと。
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【パウロの教え】
佐藤優がキリスト教観について、少し踏み込んで書く。奇しくも、四元の言う、日本に不足する「超越的な感覚」を回復させる方法が出てくるのに驚く。
超越性
日本社会の行き詰まりを打破するヒントを新約聖書に見出す。「人間の力で理想的な状態を作ることができるという幻想から離れ、外部の力、超越性に目を向け」よと言う。その方法はキリスト教でなくてもかまわない。座禅でも、御念仏でも、カント哲学でも、柄谷の統整的理念(X)でもいい。平たく言えば、「自分の考えや立場にだけ固執するのではなく、他者の気持ち、立場になって考えてみることだ」と。
「他者のために生きるということを徹底的に貫き、その結果、国家によっても社会によっても受け容れられず、処刑された」のがイエスという男だと述べる。
「新約聖書に記されたイエスに関する記録を読むことによって、私たち一人一人の心の底に確実に存在する超越性を察知する力が呼び起こされる」と言う。
フィリピの信徒への手紙
佐藤は「フィリピの信徒への手紙」の影響を強く受けたという。人間は常に途上にある存在であるとするパウロの認識を「フィリピの信徒への手紙」三章12-16節に読み取る。「パウロが理解するキリスト教信仰において、人間に完成はなく、到達することのできない目標に向かい、最後まで努力しなくてはならないのである」と。
今月の言葉
「目標を目指してひたすら走ることです」(パウロ)
解説
人生には、言語にはできず、目にも見えないが確実に存在する目標がある。それに向かっていくことで、充実した一生を送ることができる。