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語法を通してパウロに迫る翻訳


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青野 太潮訳『新約聖書〈4〉パウロ書簡』(岩波書店、1996)



 岩波版新約聖書の第4巻。

 ひかえめに述べても、およそパウロに、またパウロの言葉遣いに、関心がある人が翻訳を考えるうえでの必読書のひとつといえる。訳および註において真摯な学究的態度が貫かれており、どの立場をとるにせよ、参考になる。

 原語に忠実であらんとする姿勢はたとえば、フィリピ人への手紙4章3節にみられる。新共同訳で「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」と訳す。ところが、本書で「然り、真実な、軛(くびき)を同じくする仲間よ、私はあなたにもお願いする。彼女たちを助けてくれるように。」となる。

 違いが大きいことが一目瞭然。(新約)聖書において軛が重要な語であることを知る人が見たらこの違いに愕然とさせられる。同じく原語に忠実な欽定訳聖書だと 'And I intreat thee also, true yokefellow, help those women . . .' と訳す。ちなみに、英語で yokefellow が「共働者, 仲間」の意の普通の語('yoke' がくびき)。

 共に働く者の感じが軛をだすことにより明瞭になることが重要。さらに、イエズスのことば「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(聖マタイ11章29-30節)を思い浮かべるなら、信仰を同じくする者の感じも出る。

 本書で「軛(くびき)を同じくする仲間」に脚注があり、原語が 'syzygos' [σύζυγος] とある。固有名詞ととる解釈があることも注記される。

 もうひとつ特筆すべき訳し方がある。「書簡のアオリスト」と呼ばれる語法を訳すときの工夫だ。(アオリストとはざっくりいえば過去に起きた出来事をしめす時称。フランス語の単純過去(passé simple)に似るといわれる。)本書で「私パウロが、私の手でもって書く。」(フィレモンへの手紙19節)と訳し、その脚注で「原文は書簡のアオリストの『書いた』」と記す。もちろん、アオリストが過去の出来事をしめすアスペクト(相)であるとの立場にたてばそのまま「書いた」と訳すこともありうる。現に、岩波版新約聖書の第5巻のコロサイ人への手紙4章8節が「(私は彼を)あなたがたのもとに遣わした」と訳す。そこの脚注に「受取人が手紙を受け取った時点から見ての話。(略)執筆の時点では当然のことまだ派遣していない。この時称を書簡体アオリストという。」とある。

 読者の立場からいえば、まだ起こってもいないことについて、手紙の受取人が受け取った時点を起点にして考えるのは難しい。翻訳の立場により分かれるが、本書の訳し方もひとつの見識と考える。

 なお、この種の「書簡のアオリスト」が古典ギリシア語のアオリスト時称研究で 'epistolary aorist' と呼ばれることを附記する。新約ギリシア語の手引きをするウェブサイト Ezra Project に次の説明がある。'Epistolary aorist -- sometimes the writer of a letter would put himself in the place of those who would eventually read his letter, and he would use the aorist tense to describe something that had not yet happened. At least it hadn't happened when he was writing the letter. By the time the letter arrived at its destination, however, the act would be an accomplished fact -- so he would use the aorist tense to describe it.' (〔大意〕「書簡のアオリスト」──時に書簡の書き手が受取人の立場で書くことがあり、その際、まだ起きていない出来事を表すのにアオリスト時称を用いる。少なくとも執筆時点では起きていない出来事のことだ。ただ、手紙が着くまでにはその出来事が実現しているとしてこの時称を用いる。)

 これはこれでなかなか面白い。そのような種々の原語における問題点に気づかせてくれ、パウロの筆致に肉迫させてくれる稀有な翻訳書。