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進化の「あがり」をめぐるスリリングな短篇


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松崎 有理『あがり』(創元SF短編賞受賞作、2010)[Kindle版]



 文章が美しい。

(大学の理学部の)生命研究棟で卒論研究中のおさななじみ、イカルとアトリの物語。

 文章に漢字多し。カタカナは両名の名くらい。あとは、ヒトとか、イカルが尊敬していたジェイ先生とか。

 イカルは細胞骨格繊維遺伝子という特定の遺伝子を増幅させ、進化のおわりである「あがり」に達するかを実験中。アトリは癌細胞を培養している。

 アトリの食事。大豆の発酵食品が経木の包みに入っている。「解凍して一日ほど低温静置し、発酵がすこし進んだところで食すのが好きなのだ」とある。あるいは普通のことなのかもしれぬが、生物学専攻の女子大生の言葉ということを念頭に置くと、「分子ガストロノミ」とか「分子調理」などの言葉が思い浮かぶ。分子栄養学とか。

 大学の研究室以外の場面は殆ど出てこない。アトリの食事の場面も研究室の中だ。

 このSFは進化の「あがり」をめぐる一つの着想をもとに書かれている。研究室の雰囲気とか、実験の進行にともなう息づまる感じとか、よく書けている。この実験が検証しようとしている遺伝子淘汰論をめぐって小説の最後にある結末が待っているが、読者としてはそこから先が読みたいところで終わる。そこのところをもっと踏み込んで書いてくれれば最高の作品になっただろう。べつに後日譚を長々と読みたいわけではないが、この結末が意味する生物学的な意味合いについて、もっと語ってほしい気がするのである。

 創元SF短編賞の第1回(2010年度)の受賞作。同回の山田正紀賞が宮内悠介『盤上の夜』であったことも有名だ。「あがり」を表題作とする連作短編集も手許にあるが、この版だと選評が読める。

 候補作の段階では著者は松崎祐(ゆう)であったが、受賞を機に松崎有理(ゆうり)とあらためた。1972年茨城県生まれ、東北大学理学部卒という経歴が本作を読み解くのにすこし関係する。


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