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棋士はいつも内なる火と闘っている。外の火など……


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宮内悠介『盤上の夜』(創元日本SF叢書、2012)



 第1回創元SF短編賞 (2010年度)山田正紀賞受賞作の表題作を収める短編集。本書は第33回日本SF大賞(2012年)受賞作。

 表題作「盤上の夜」のどこがSFなのか。

 SFでないとすれば評価すべき点はそれでもあるのか。

 四肢欠損の女流棋士・灰原由宇の物語。

 四肢を失う場所に、こういうこともあり得べしと想像させるシナが選ばれるが、四肢をなぜ失わねばならなかったのか特に納得させられる事情が綴られるわけでもない。卒業旅行先でそういう仕儀に陥る。

 由宇が一種の囚われの状況から脱する手段として囲碁を覚えたこと、日中の棋院の縁でシナを出て日本に帰り、日本で先輩棋士の保護下に女流棋士として異才を発揮すること。これらのどこにもSFの要素はない。

 唯一、SFの周縁を掠める要素が、由宇の棋士としての能力を測るためにチューリング・テストの話題が出るところくらいだ。自ら石を打てぬ体ゆえ、人に代わって打ってもらう過程に不審の目が向けられた際のことである。チューリング・テストは、人か機械か判定者には分からない条件下で交信させ、相手が機械と見抜けなければ機械として知性を備えているとみなす試験。古くから人工知能方面で知られる方法であり、このテストに言及したからといって、現代の読者にSF的と感じさせるほどのものでない。

 創元SF短編賞の選考委員はどこを評価したのか。由宇の触覚が碁盤と一体化した、一種の「異能人間」としての存在か。由宇の頭脳が驚くべき先読みの才を発揮するところか。

 こうした詮索を続けることは徒労に終わるという見解もあり得る。単に小説作品とのみ見ればそれで充分でないかと。

 では、単に小説と見ればどうか。よく書けている。ただ、小説一般に土俵をもってくると、特にこの小説を高く評価すべき点は評者には見出せない。

 しかし。以上のような感想は本書に次に収録された作品「人間の王」を読んでふっとんでしまった。

 「人間の王」ではチェッカー・プログラムの話が出てくる。人間のチャンピオン、ティンズリー氏に勝ったコンピュータ・プログラムの話だ。5000年の歴史を誇るボードゲームのチェッカー(西洋碁とも呼ぶ)が解かれてしまう。チェッカーの完全解を発表したのがカナダ・アルバータ大学のシェーファー。実際、その論文は2007年の「サイエンス」誌に掲載されている('Checkers is Solved', Science, 14 September 2007)。

 この話で、前の作品「盤上の夜」に次の箇所があったことを思い出した。

由宇が実際にネット対局をしたとき、大勢が、それを当時研究中だった量子評価関数によるコンピュータ囲碁だと疑ったことは興味深い。彼女は、いわばチューリングテストをパスできなかったのである。


この箇所の意味が初めて分かったのだ。つまり、由宇は人間でありながら、量子コンピュータなみの知性を備えているとみなされたということである。いわば、人間の「進化」のような話だ。これは間違いなくSFである。古典コンピュータ(ノイマン型コンピュータ)に対し量子コンピュータ(非ノイマン型コンピュータ)が桁違いの並列処理を行える可能性があることと、従来の人間と「進化した」人間との対比とが、パラレルに見えてくるのである。それは、「知性」とは何かについての思索も誘う。

 こう感じたことは、本書の最後に収められた書下ろしの「原爆の局」でも裏付けられる。この話に引退後の由宇が登場し、「次なる人類」という言葉を言いかける。

 他に、麻雀を扱う「清められた卓」が出色。アマチュア雀士の真田優澄(ゆずみ)の打ち方が、プロ雀士から見て魔法と区別がつかない突出した技術を備えているという話である。優澄は「都市のシャーマン」と呼ばれる宗教法人の代表である。この法人は麻雀という儀式を通じて世界の不調和を癒すことを目的とする。

 この短篇の途中に「宗教と科学の戦い」という言葉が出てくるが、奇しくもそれは本書全体を貫くテーマを示唆しもする。シャーマンの目的は一つしかない。治療行為である。対して、科学の目的は何か。本来は人類の福利であろうけれども、最後の短篇を見ても分かるとおり、科学の応用技術の中には人類にとって負の遺産としかいえないものもある。その、重く深いテーマを種々の盤上ゲームを通して考察したともいえる作品群。可能性を感じさせる作家である。


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