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19世紀末のアイルランドで起こった「取り替え子」事件を発端に「ケルト的」言説をダイナミックに捉える書


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下楠 昌哉『妖精のアイルランド―「取り替え子」(チェンジリング)の文学史』(平凡社新書、2005)



 本書は基本的にはアイルランド文学の研究書だ。取上げられるのはイェーツやハイド、ブラム・ストーカー、オスカー・ワイルドラフカディオ・ハーンコナン・ドイル、ジェームズ・ジョイス。

 けれども、その発端であつかう「取り替え子」をめぐる事件が他の本ではおそらく扱われていないので、それだけでも価値がある。本書は全体としては、そのような題材の民話に代表される想像力のあり方を、文学、民俗学歴史学の交錯する地帯にさぐろうとするものなのだけれど。

 1895年3月、その異常な事件はおこった。アイルランド中南部の内陸県、ティペレリ県でのことだ。世に「ブリジット・クリアリー焼殺事件」として知られる。病に伏せった妻のことを、人間でなく(代わりに取り替えられた)妖精だと信じた夫が、火で脅すと正体を現すという言い伝えに従い、妻を焼殺する事件だ。妖精譚の曲解による悲惨な犯行とされる。

 この顛末について書いた約20頁の第1章が貴重だ。本書が出た2005年の時点では、その根拠となった本の翻訳が予定されていると書かれているが、現時点(2015年3月)ではまだ、出ていない。出るとすれば、原田美知子訳『ブリジット・クリアリー焼殺』のようなタイトルになるらしい。

 2点、コメントしておきたい。まず、その典拠の書は Angela Bourke, The Burning of Bridget Cleary: A True Story (1999) というもので、たいへん面白い。関心がある人はこの原著にあたることをおすすめする。著者はアイルランド語聖歌に関する重要な研究書の著者としても知られる。

 もう一つは、夫が信じた地元のフェアリー・ドクター、デニス・ガーニーのことだ。夫はガーニーの言葉に影響を受けたとされる。妖精がからむ「事件」が起きたときに、民衆が頼りにするのは、このフェアリー・ドクターのような人物と、もうひとつ、教会の司祭がある。彼らがいったいどのような妖精伝承の知識を保有していたのかは、それじたい、興味あることだが、前者については、それに基づいたこのような事件から、ある程度は分る。後者については、おそらく膨大な知識体系があるのだけれど、知るかぎりでは一度も公刊されていない。