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物理学が神学に取って代わる?


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池内 了『物理学と神』( 集英社新書、2002)



 集英社新書としての刊行は2002年だが、もとは「UP」での1994年から95年にかけての連載に加筆したもの。

 「はじめに」によれば本書は「物理学の歴史に登場してきた神の姿の変容を追いかけることによって、物理学の内実がどのように変化してきたかをたどる試み」である。

 はたしてそんな本になっているか。その評価は読者の関心の角度によって異なるだろう。

 かりに(そんな人がいるとは思えないが)神学の立場から、神学と物理学の関わりをここに読もうとした読者は失望以外なにも得られないだろう。神学的要素と呼べるようなものはまったくない。「あとがき」にある通り、著者は「神を節回しにして物理学が語れるのではないだろうか」と考え、「気軽に神を使うこと」をしただけである。

 いっぽう、17世紀以降の物理学の歴史を「神」「悪魔」「パラドクス」等をキーワードにして、その中身を原理のところから、数式を使わずに理解したいと思う読者がいたとしたら、本書はうってつけである。1995年当時の物理学のレベルではあるが、大満足が得られるだろう。物理学的な物の考え方の広がりを知る上でも秀逸な書物である。読む価値は大いにある。

 特に、著者は、エネルギーの流れを物理的に説明するのはうまい。明快だ。また、物理学の難解な概念を分りやすく説明する能力も非常に高い。第3章〜第5章のあたりは何度も熟読するに値する。

 本書を最後まで読めば、物理学が神学に取って代わろうとしているのではないかと思えてくるが、それは杞憂だ。「あとがき」には「神の挑戦に見える謎は、実は物理学者が無知であったがための誤認であり、物理学者が独り相撲をとっているに過ぎないことが判明する」と謙虚に書いてある。

 と、ここまでは一般的な観方とさほど違わないだろう。が、評者は一つ気づいたことがあるので記しておく。第5章「神は賭博師」に次の文章がある。

無限に神が存在するのか、唯一神がどこにも存在するのか、いずれであれ、カオスという賭博に入れ込んだ神が絶えず出入りする場所は、ストレンジ・アトラクターというフラクタル世界であり、神はそこで無限の相似な神々へと分岐しているというイメージになる。フラクタル世界は神の遍在を示唆していると解釈できそうだが、それが西洋的な唯一神なのか、東洋的な八百万の神なのかは、あなたのお好み次第である。それを古典的に決定することも、量子論的に確率を計算することもできない。(152頁)


このようなフラクタル世界の神をどんな神ととるかは読者のお好み次第とあるが、評者には、これは総合的に見れば、ケルトの神に酷似すると見える。自然界に遍在する神という概念をケルトの霊性において捉えると、それは 'neart' と呼ばれる一種のエネルギーのようなものに帰着する。これは、例えばアイルランドにおける独特のキリスト教観の根底に流れる考え方である。(ストレンジ・アトラクター「奇妙な誘引体」とはカオスにおいて、予測不可能な各粒子が必ず立ち寄る旅館のようなもの。詳しくは本書143〜146頁あたりを参照のこと。)


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