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「もう二度と」で決壊し「その川」が大きな意味をもつ


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吉本ばなな『キッチン』(1987, 1988;新潮文庫、2002)



 「キッチン」「満月――キッチン2」「ムーンライト・シャドウ」の三篇を収める。


キッチン」・・・「海燕」新人文学賞受賞(1987年11月)。
 「この世でいちばん好きな場所は台所」と語る桜井みかげのほぼ一人称の語りで進行する短編小説。地の文もほとんど一人称の想念を表す自由間接話法(描出話法〔直接話法と間接話法の中間の話法〕)となる傾向がある。会話がときに詩のように分かち書きされることがあるのもおもしろい。

 夢が特別の重みを有することが、みかげと、その居候先の田辺雄一とで共有されることが、作品で描かれる世界のその先を垣間見させる。淡々とクールに語るように見えて、それが実はヴァーバル・アイロニー(言葉の表面上の意味とずれること)になっていることを、あるいはアンダーステートメント(控えめに言ってかえって強調すること)になっていることを、「二度と」の一語から読者は知ることになる。この無段階変速のギアはすごい。その他でも、さりげなく埋め込まれた言葉が点火装置になっていることが多く、言語芸術としての意識は高い。


満月――キッチン2」・・・「キッチン」に比べるとずいぶん文体が落ち着く。
 語られている言葉と意味されていることとの間にあまりずれがなく、そのまま読めるのだ。意識しているというより、作者と文章との距離は、ついたり離れたりが自在に、かつ、たぶん自然に、起きるらしい。あまり気にしないで読むことにする。それにしても、この人の言葉、たとえば「瞳の奥にひそむとがったものが風にさらされて、どんどん冷えてゆく気がした」はまるで詩だ。やはり、こういうとき、文のヴォルテージは急激に上がる。エネルギーの出入りが自由に制御される生き物のような文体といえばよいだろうか。あるいは、「胸の内が嵐なのに、淡々と夜道を歩く自分の映像がうっとうしかった。」はどうだ。詩人なら、やられたと思うだろう。

 80年代のマンションはエントランス・ロックが普通ではなかったのだ、と妙なことに気づかされる。前作に比べて台所への愛はさらに深まっており、「魂の記憶に刻まれた遠いあこがれのように愛しい」とまでいわれるに至る。まるで天地創造のときから、台所はみかげと共にあったかのように。これは技巧的にはオーヴァステートメント(誇張)の域に本来属するのだろうけれど、あまりそんな感じがしないのが不思議だ。この話が本質的に神話的だからだろう。みかげと雄一との関係は「日常的な意味では二人は男と女ではなかったが、太古の昔からの意味合いでは、本物の男女だった」と語られる。本当は著者は小説を書きたくないのではないかと思わせられるのは 「言葉はいつでもあからさますぎて、そういうかすかな光の大切さをすべて消してしまう」などと書いてあるからだ。著者にとって「基準はこの世にない」のだ。


ムーンライト・シャドウ」・・・泉鏡花文学賞受賞(1988年)。
 マイク・オールドフィールドが作った曲<ムーンライト・シャドウ>(1983)に影響を受けて書かれたといわれる。ぼくはマギー・ライリーがうたうその歌を何度も聴きながら本作を読んだ。間奏でのマイクのストラトキャスターのかわいたひびきが印象的だが、著者がインスピレーションを受けたとすれば、恐らく二点ある。

 ひとつは、これが収められたアルバム Crises のジャケット。ここにえがかれた月は本作のなかで、主人公のさつきが、死んだ恋人、等の弟の柊と街を歩く場面で、二人(さつきと柊)のそれぞれの恋人が一緒に遭った事故の現場である交差点で信号待ちをしているときに、見上げた月を想わせる。「まるで真珠のようにひんやりと白く小さい光があんまりにもきれいだったのだ。」と書かれる。シングル盤であった可能性もあるが、ジャケットが違うので、絶対にアルバムのほうだと思う。


     


 もうひとつは、歌詞だ。ジョン・レノンの殺害の夜、すぐ近くにいたマイクが無意識のうちに影響をうけたともいわれているが、後半に現れる歌詞 'See you in heaven one day' (いつか天国で会いましょう) の祈りの言葉が何度も繰返されるので、この曲が好きで聴いていれば耳の底に絶対に残ってしまう。

 作品そのものについて少しだけ触れると、冒頭近くの「私は毎朝その川にかかる橋の欄干にもたれて熱いお茶を飲んだ」の「その」に籠められた喚起力はすごい。これは文法的には前方照応でなく、後方照応(cataphora)で、その真の意味は作品の後方で明らかにされる。

 さつきが川べりで出会う、うららという謎の女性も印象的だ。「”人間に化けた悪魔がふと、これ以上なににも気を許してはいけないと自分をいましめるような”表情をした」と描写されるのにひきずられて、最初は悪魔のように見え、少しすると、魔女のように見え、しばらくすると天使のようにも見え、結局は柳田國男の『遠野物語』に出てくる異人のように見えてくる不思議な存在だ。

 新潮文庫版のあとがきには、この作品は「感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある」と感じている人に、外部からうるおいを届けたいとの思いで書かれたと記されている。「自殺しようとする人がたとえ数時間でも、ふみとどまってくれるかもしれない」と願って、「この世の美しさをただただ描きとめていきたい」と著者は切望した。そのねらいは、成功しているのではないか。ただし、届くべき人のもとへ届きさえすれば。心がいつしか乾燥してしまった人にこの本が届けばいいなと、心から思う。


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