Tigh Mhíchíl

詩 音楽 アイルランド

記事一覧

言葉にすれば消え、やめれば漂う。


[スポンサーリンク]

黒田夏子abさんご』(文藝春秋、2013)



 幻のデビュー作の短篇「毬」(1963)ほか2篇は縦書でうしろから、第148回(2012年下半期)芥川賞受賞作である『abさんご』(2013)は横書でまえから、というリバーシブルなつくりの本。縦書作品のほうは、ふつうの漢字かな交り文、横書作品のほうは限界までひらがなを使った文で書かれている。

 「」(1963)は少女タミエの視点から毬をめぐって綴られてゆく。と思っていると、突然、著者が介入する。読者はメタフィクション的な意識をその瞬間から持たされる。と思うまもなく、唐突にこの短篇は終わってしまう。「芳香性の柑橘類の残り香」のような余韻を残したまま。本短篇は第63回読売短編小説賞を受賞している。

 「タミエの花」(1968)はタミエと花とのかかわりを描く。名前を知る花も、知らない花も、すべての花はタミエのものであった。山でノイバラに顔を埋めていた時いきなり声を掛けてきた初老の男との会話は、花の世界に生きる少女と学問的分類にいそしむ男との駆引きとなる。あるいはそれは感覚と理性との戦いであるかもしれない。花をめぐる支配の攻防ともいえるかもしれない。個の領域と「みんなとの協定」との闘いかもしれない。

 同人誌「シジフォス」に発表されたものだが、ただしく著者の才能を知らしめる傑作である。タミエは、この花こそ最後の砦と思っている花について、泪まみれで庇おうとするが、舌戦には向かない。なぜなら、その花は言葉を超えた存在であるからである。

しかし本当のところその花の形は、確かにタミエには見えながら、つきつめられれば総て朧ろに眇として、花びらの数も斑の色も、こうとはっきり言葉にならない。すれば消え、やめれば漂う。(三四頁)


 「」(1968)も同人誌「シジフォス」の別の号に発表されたもので、タミエがまた登場する。<虹というものを一度も見たことがないというのが、タミエの密かな劣等感であった。>で始まる、浜辺を歩くタミエの、やや不気味な短篇である。

 『abさんご』(2012)はある家族の歴史をつづる小説であるが、ひかえめにいっても、実験的な文学ではある。実験的ではあるが、実験のための実験というより、必然がしからしめたようなたたずまいがある作品である。現代の作品でありながら、平安のむかし、中古文学のようでもある。おそらく、風俗習慣をのぞけば平安期のひとが読んでも理解できるのではないかという錯覚すらわいてくる。あるいは、ひょっとすると、著者はジョイスの『フィネガンズ・ウェーク』のような文体が好きなのかもしれない。

 一文が概してながいけれども、読点(ここでは「,」)が適切につかわれていることもあり、このリズムは心地よい。ときに主語が見失われる感覚もするが、思い切ってそんなものにとらわれずに読み進めてゆきたいとの誘惑がたえずおそってくる。ただし、きわめて厳密な作文がなされているので、よく読めばかならず主語乃至構文はとれる。

 最初のうちこそ集中と緊張とを強いられるけれども、徐々に慣れてくる。中毒になるとまではいかないかもしれないが、評者にはこの文体は面白く感じられる。「タミエの花」と同じく、言葉にすれば消え、黙ると漂うような、記憶のあわいにある何かを浮かび上がらせようとする文体なのだろう。

 この小説は、ある親子のくらしの変化を子の側から追憶するという体裁をとる。書斎、食卓、使用人との関係、掃除や家事などの細々した事柄に対し、親子がどう反応し、どんな内面生活を送っていたかを大人になってから振返る。小児の当時、親にいかなる大人の事情があったかについての推測は限界があるものの、子供は子供なりにするどく観察していたことが、しなやかでしたたかな文体でつづられる。

 文体上のもう一つの特徴に、固有名詞やカタカナが使われないことが指摘されている。このうち、人名や地名などの固有名詞の不使用は、一見して語りの抽象度を上げるようにも感ぜられるが、実際には名指されざる登場人物たちの昏い内面がより深まるような効果をも生む。カタカナ不使用のほうは、昭和の戦前戦後の世相をある程度は想起させる役目を果たしている。また、登場人物の性別も特定されないような書き方がされている。

 親子の世界観と使用人の価値観の衝突は次の文章に端的に表れている。

子から親も,親から子も,こうはしておくべきでないと熱心に信じた者により,なんどか草ごろし人がよびいれられ,庭はやがてあるとわかっているものしかない庭となった.そして断じてその庭のようになりたくない者は出ていった.(62頁)


この文章が現れる「草ごろし」の章は本小説の精髄であるように思われる。

 著者が浮かび上がらせようとした記憶のあわいは、あるいはどこにもない記憶なのかもしれない。そういう痛切な思いが次の文章にはあふれている。

ねむらせうたは,それを生きはじめの記憶逸失期にくりいれてしまう者だけを聞き手とする,きわめてひそやかな現前である.(71頁)


このような記憶のあわいはまた、さまざまな岐路で選択を重ねてゆくしかない人間の、さんごのように枝分かれした人生の果ての、匂いあふれる感懐にもつながってゆく。