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〈サリーガーデン〉覚書


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 過日、某番組から協力依頼があり、アイルランド民謡〈サリーガーデン〉についての照会に応えた。何を応えたかもはや忘却の彼方になりつつあるが、いま思い出せるところを覚書として記しておく。

 この歌曲の起源や成立について、主としてイェーツとのかかわりをからめて応えた。

  • 詩と曲について。Herbert Hughes の編纂した歌集には、詩がイェーツ作、曲が 'The Maids of Mourne Shore' (つづりに注意)であるとある。その歌集には歌詞つきの歌の旋律にくわえてヒューズ編曲によるピアノ伴奏がついている。その歌の旋律はまちがいなく、ふつうに知られている 'Down by the Sally Gardens' と同じもの。〔歌の題〕Down by the Sally Gardens / 〔付記〕Words by W. B. YEATS, Air: "The Maids of Mourne Shore" / 〔歌集の文献データ〕Irish Country Songs. Collected and arranged by Herbert Hughes. Volume 1. Boosey & Hawkes (London). 原著刊行は1909年。(歌のクレジットに Copyright 1909 by Boosey & Co. とある。)現在も同じ出版社からこの歌集(4巻本)のハイライト版が出ている。
  • イェーツが〈サリーガーデン〉のメロディに感銘をうけ詞をつけたという史実が正しいかどうかについて。これについて種々の可能性がある。
  • イェーツはスライゴ県のバリサデア村の老農夫の女性がうたう歌を聞き、憶えていた3行をもとに、もとの古い歌を復元したと考える。
  • その古い歌の起源について、下に挙げる3説のうちでは2.が有力に思える。つまり、 'The Rambling Boys of Pleasure' というバラッドが源泉であるということ。有力だと考える理由はその説の提唱者シールズが伝統歌の研究者としてきわめてすぐれていることと、その説が発表された媒体が権威のある雑誌だから。
  1. 先行する 'Down by the Sally Gardens' があったとの説。P. J. McCall という人物が1875年に 'Down by the Sally Gardens' (綴りに注意)という題の 'Old country love song' を聞いたと主張したとする説がある。McCall の原稿を書き取ったものを見ると、それが本当なら確かによく似た詩。この説は次の本に載っている。Colin Meir, Ballads and Songs of W. B. Yeats, pp. 16-17 (London: The Macmillan Press, 1974) (これは1972年に University of Essex に提出された博士論文を出版したもののよう。この説の信憑性は読んでみないとわからない。)
  2. 'The Rambling Boys of Pleasure' が源泉とする説。H. E. Shields が唱えた説で、この詩の源泉は 'The Rambling Boys of Pleasure' という Anglo-Irish broadside ballad であるというもの。このバラッドは現在でも唄われている有名なもので確かによく似た詩行を含む。(旋律は違う。例えば Andy Irvine の歌がある。)これを見る限り、3行は非常によく似ている。そのバラッドの第2連は次のようになっている。 Down by yon flowery garden my love and I we first did meet. / I took her in my arms and to her I gave kisses sweet. / She bade me take life easy just as the leaves fall from the tree / But I being young and foolish with my own darling did not agree. このうち、1, 3, 4 行目はそっくり。イェーツがこの歌を聞いてその3行を憶えていたという可能性があるかもしれない。/ シールズはその点に関連して、イェーツはおそらくこのバラッドの3行以外の部分はあまり気に入らず、'retained only the most strikingly poetic lines' (詩として最も印象的な行のみを残した)と言っている。 / シールズはこの詩がアイルランド語の詩歌 'An beinnsín luachra' 「灯心草の束」などと同じアイルランド語の詩の韻律で書かれていると指摘している。その詩の韻律は6強勢詩行で、最後の強勢詩脚が1音節、4行連、1行中に2句という型を持つ。(この歌はたとえばここで聞ける。 ) / シールズがこの源泉を得たのは有名な伝統歌の歌い手、Paddy Tunney から。 / 以上の説は次の学術雑誌に出ている。H. E. Shields, 'Yeats and the "salley gardens"'. Hermathena: a Dublin University review C1 (Summer 1965), p. 22-p. 26. / 書誌情報は次のところに出ている。
  3. 'Going to Mass last Sunday' が源泉とする説。Colin O'Lochlainn が Anglo-Irish Song-Writers (1950), p. 17 で唱えた説。

 以上を考える際の基本的なデータは次の通り。

  • イェーツがこの詩を最初に発表したのは1889年の詩集 The Wanderings of Oisin and Other Poems だった。その時の題は 'An Old Song Re-sung' というもの。古い歌を復元した歌の意味でつけたようだ。
  • 1895年に出された詩集 Poems に収められた時の題は 'Down by the Salley Gardens' (綴りに注意)だった。その時、イェーツがつけた注に 'This is an attempt to reconstruct an old song from three lines imperfectly remembered by an old peasant woman in the village of Ballysodare, Sligo, who often sings to herself' とある。
  • ここでのポイントは、スライゴー県バリサデア(Ballysadare)〔スライゴーの町から南に7kmの村、アイルランド語で Baile Easa Dara バラサダラ;イェーツが用いた綴りは Ballysodare または Ballisodare〕で老農夫の女性が自分に向かって唄っていた歌のうち、(彼女が)不完全に憶えていた3行をもとに、その古い歌を再構築しようとして書いた詩であるということ。
  • 1888年9月6日以後にイェーツが Katharine Tynan に書いた手紙には、この詩行(おそらく上記の老農夫の女性から聞き覚えた3行)が 'Old Irish verse' (古いアイルランドの詩歌)であるとある。ここで分かるのは、イェーツが1888年の時点で、この古い詩歌がある(長さを持った)詩であると認識していたことだ。そのうち、3行だけを自分は聞いて憶えていたということがのちに詩集に収めた時の自注から分かる。
  • はるかにあと、1937年にイェーツが行ったラジオ放送のスクリプトによると、憶えていたのは(英語の)歌の2行。ここで重要なことは、イェーツの聞いたのが英語の歌であったということだ。次のようにスクリプトにはある。 "Down by the Salley Gardens", for example, is an elaboration of two lines in English somebody sang to me at Ballysadare, County Sligo
  • 2行と3行の違いはあるが、ともかく確かなのは、その2, 3行をイェーツはスライゴー県の村で聞き、それをもとにこの詩を書いたことだ。だから、「メロディに感銘をうけ詞をつけた」のではなく、英語の歌を聞き、その2, 3行からこの詩を書いたということになる。イェーツの意識は、自分のオリジナルということではなく、古い歌を復元し、それを初めて詩として印刷したということであったかと思われる。
  • 1935年に、イェーツは、"Down by the Sally Gardens" の曲の歌詞は、私の書いた言葉により、初めて出版されたという意味のことを書いている。これは1889年や1895年およびそれ以降に出版されたイェーツの詩集のことを言っているのだろう。

 Andy Irvine や Paddy Tunney の唄う 'The Rambling Boys of Pleasure' もよいのだが、Bert Jansch も名盤 The Ornament Tree の中で唄っている。