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1949年のモスクワの子供時代をとどめた奇跡の短編群


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リュドミラ・ウリツカヤ『子供時代』(新潮社、2015)

 

 著者のリュドミラ・ウリツカヤ(Людмила Улицкая)は1943年生れ。モスクワ大学では遺伝学を専攻した。現在ロシアでもっとも活躍する人気作家。その6編の短編を収める。1949年のモスクワとおぼしき町に住む子供たちが主人公である。

目次

キャベツの奇跡

 みなしごの幼い姉妹が遠い親戚のおばあさんの家に引取られる。ある日、おばあさんに言いつけられて出かけた姉妹は、キャベツの店の行列に並ぶ。やっと番が回ってきたのに、ポケットのお札を落としたため、キャベツが買えず、姉妹は沈んだ気持ちで帰途につく。このまま帰ると追い出されるのではないかと、姉妹の心は不安でいっぱいである。その悲しみを「泣き歌」に喩える。

 訳者の沼野恭子は実にいいところに訳注をつけてくれる。「泣き歌」に関する次の注はフォークロアを研究している者には実にありがたい。

泣き歌とは、葬礼や婚礼などの場で歌われる儀礼歌。ロシアでは古くから伝統的に「泣き女」が悲しみを詩的に歌いあげてきた。(25頁)

 アイルランドの「泣き歌」 caoineadh にそっくりだが、アイルランドでは婚礼の場では歌わない。ともかく、この注があるおかげで、姉妹は葬式のように悲しいことがわかる。

 子供は何か大変なことがあるとこの世も終わりかと思う。それくらい悲しみが深いことを、悲愴感に胸がしめつけられることを大人になると忘れてしまう。お金を落とすくらい大したことないと割切れるだけの人生経験もまだない子供時代。

蠟でできたカモ

 ワーリカ・ボブロワの暮らす中庭に古物商のロジオンがやって来る。ワーリカはロジオンのスーツケースに入っている半透明の蠟でできたカモが欲しくてたまらない。だけど、交換に持ち込めるような品は持ち合わせていない。「突如ワーリカは度胸が据わり、ぞくぞく寒けがした」。いったい何が起こるのか。

 ワーリカはのちに有名な体操選手になった。試合に出るたびに「必ず度胸が据わり寒けがし」た。

つぶやきおじいさん

 最近ほとんど目が見えなくなってしまったひいおじいさんの一家は大人数だ。曾孫(ひまご)のジーナは兄のアリクがひいおじいさんにもらった時計がうらやましくて仕方ない。アリクはジーナにはさわらせてもくれない。

 ある朝、アリクは時計を家に置いたまま学校に行ってしまう。ジーナは時計をはめてみる。中庭で近所の子とバレーボールをしていると、ボールが手首に強くあたって、時計はばらばらに飛び散る。

 ジャガイモの袋をかつがされているみたいに辛い気持ちでジーナは家に帰る。ひいおじいさんのズボンの襞に、ジーナは顔を埋める。

ひいおじいさんの小さな乾いた手にガラスとぜんまいを押しこみ、台座だけが残っているバンドをはずすと、台座はまるで棺のふたのように恐ろしく感じられた。いつだったか一度、階段ですれ違ったときに見たことがある。(50頁)

 時計の台座が棺のふたのように感じられる連想は、子供心にはこの「事件」は死ぬほど悲しいことを暗示する。時計を手に持ったひいおじいさんは、「音もなく口をもぞもぞ動かしている」。

 この場面にそえられたウラジーミル・リュバロフの絵がたとえようもないくらい、すばらしい。ひいおじいさんが黒い枠にはまった丸い拡大鏡を片目にはめ、斜め上を見あげている絵だ。手には時計を持っている。ひいおじいさんはもと、時計屋だった。

 ジーナはひいおじいちゃんに目が見えないんじゃなかったの、見えるの、と尋ねる。ひいおじいちゃんは答える。

「まあ、なんとかな。でも、見えるのはいちばん大事なものだけなんだよ」(53頁)

 ある夏、妹が生まれるのでセリョージャは田舎のひいおじいさんの家に預けられる。都会っ子には見るもの聞くもの初めてのものばかり。はとこが三人いるが、ひいおじいさんに言いつけられる大工仕事が忙しく、子供同士で仲良くなる暇がない。夏の終わり頃、ひいおじいさんは蓋のついた大きくて長い箱を作った。それが何なのか、はとこに教えられるまでセリョージャには見当がつかなかった。

幸運なできごと

 二階建てアパートの地下の部屋に暮らすハリマは、陽が照りつけるようになると寝具の虫干しを始める。ところが、その虫干しの場所がアパートの1階に住むクリュークヴィン一家の窓のすぐ下にあたる。おもしろくないクリュークヴィン家のばあさんは、孫のコーリカを使っていろいろな意地悪をする。

 いたずらっ子のコーリカはうっとりするようなガラクタの山がある屋根裏部屋が探検したくて、隣の建物の屋根を経由して屋根裏部屋に接近する。クリュークヴィン家のばあさんがシャベルで灰を虫干し中のベッドの寝具にかけた時、どしんと落ちるものがある。コーリカだった。

折り紙の勝利

 ゲーニャ・ピレプレチコフは生まれつき足が悪い。いつも鼻がつまっている。父親がいない。そんな理由で近所の子供たちにいじめられている。母親がゲーニャの誕生日にその子たちを呼ぶことを考えつく。

 ゲーニャはこのところ、三週間も続けて学校に行っている。病気がちのゲーニャにはめずらしい。おばあさんは迷信深いので、邪視を恐れて肩越しに唾を吐く。この迷信について注がある。

ロシアの迷信では、前もって良いことを言ったり言われたりすると、邪視(邪悪なまなざし)がそれを阻止しようとするという。邪視に悪さをされないよう、悪魔がいるという左の肩越しに唾を吐く(あるいは唾を吐く真似をする)とか、木(木製のもの)をたたくとかする風習がある。

 誕生日会の当日、ピアニストになりかけた母がいろいろな曲をピアノで弾き、来てくれた十二人の子供たちを楽しませようとつとめる。十二人の中にはコーリカもワーリカもいる。ファント遊びというゲームをやる段になり、各自が提供すべきファント(賭けるもの)を持っていなかったので、ゲーニャが折り紙で帆船やコップやシャツなどをつくってやる。一生のうち何千日もベッドの上で過ごしてきたゲーニャは折り紙芸術の名人なのだ。

梨木香歩の書評

 本書には梨木香歩の書評がある。また、本書の表紙裏のところに梨木の文章が掲載されている。それを引用しておく。

旧ソ連の日常のディテールが、足裏のしびれや痛み、しんしんと肩を、肘回りを浸食してくる冷たさの実感を伴って迫ってくる。その積み重ねの上に、読者は不意に天上から陽が差してくるような幸福感を主人公の子どもたちとともに体験することになる。脈打つ世界との間に遮るものは何もなく、一方的にやってくる世界の鼓動をそのまま無防備に五感で受け止めざるを得ない子どもの辛さと、新鮮なまま感受する謙虚さ━━それらを支えたのは、スターリン時代の暗い抑圧の中にあっても消し去ることの出来なかった、生命(いのち)の力の、光溢れる強靭さそのものである。