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シナの故事を語り直した短篇集


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万城目学『悟浄出立』(新潮社、2014)

 

 シナ文学やシナ歴史書等に現れる故事を新たな視点で語り直した短篇を五つ収める。作家としてこうした歴史短篇小説が書きたかったと万城目学は語る。「8年間エンターテインメント小説を書いてきて、ようやく許される一冊という気がします」と。<一瞬を切り取り、登場人物の心の移り変わりを丁寧に書いていく歴史短編>が好みで、そういうものを自分でも書いてみようとしたと。「自分で書いてみてわかったんですが、これ、しんどくて量産できない」とも語る。(毎日新聞 2014年8月24日「今週の本棚・本と人」)

 確かに、読んでいてしんどくなる箇所もある。しかし、読了後に、登場人物に開けたと同じような新たな視界が開ける心地がするのが救いだ。

 五つの短篇は別個の話のようでいて、どこかつながっている。そうした地下水脈の一つを挙げれば、「趙運西航」の趙運の述懐がある。「彼らにとっての大事は、自分が現在立つ場所でも、歩いてきた道でもない。明日から自分を支える心がどこにあるか、その一点にある。つまり、彼らはこれから心を置くべき場所を見つけることに成功したのだ。」と趙運は思う。しかし、自らの「心を置くべき場所」は見つからぬ。見つからないけれど、思い切り太鼓を鳴らす趙運の心は晴れていると読者には感じられる。

 同種の晴れ間が最後の短篇「父司馬遷」でも訪れる。宦官となり、進むべき道、「天道」を見失った父司馬遷に対し、娘榮がこう話す。「誰も読む人がいない? それが何だって言うのですか? 書いて残しておくことさえできたなら、いつか読む人が現れる」と。「だから、書いてください」と嘆願する。天晴れなるかな、孝女。

「中国史において『史記』より面白い話がほとんどない」と万城目は語るが、その『史記』が残されたわけを娘の視点で書いた着想が面白い。

 本書にはもう一つ女性が視点の物語がある。楚の武将項羽の美姫の数奇な運命をえがく「虞姫寂静」がそれだ。『史記』は「虞姫の出自も項羽との別離後の運命も描いていない」という(藤井省三氏による)。その空白を埋めた作者の筆は見事だ。筆舌に尽くしがたい虞姫の悲劇的な運命とそこに浮かび上がる美しさが、強く印象に残る。哀切の美というものがもし世の中にあるとすれば、これぞその典型である。