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ピアニスト必読の変わった波長の作品


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フレドゥン・キアンプール『幽霊ピアニスト事件』創元推理文庫、2015)

 

 原著 Fredun Kianpour, Nachleben (2008). 同じ東京創元社から2011年に単行本で出た時のタイトルが『この世の涯てまで、よろしく』で、表紙が魚住幸平作だった。本書の表紙が Ryoojing.

 まず、三つのことを述べたい。

 ピアニスト必読の作品。ピアニストなら、ああ、そうだそうだ、となる箇所が続出する。ただし、急いでつけ加えると、変わった波長の作品だから、合わないこともあり得る。変わった波長というのが、主人公がピアニストの幽霊だから。1920年生まれのユダヤ人ピアニスト。1949年に他界するが半世紀後の1999年に蘇り、その時代の若い音楽家たちに出会う物語。

 翻訳が素晴らしい。音楽小説で幽霊の視点から語られる特異な物語でありながら、日本語オリジナルではないかと思われるくらい自然な言葉で綴られる。物語を追うのに余計な心配が要らない。よほどの力がなければこのレベルの翻訳は生みだせないだろう。

 幽霊というか亡霊の視点から世界を眺める感じがよく出ている。生者との交わりがシームレスに感じられるくらい物語がよく出来ている。19-20世紀の音楽史を内側から視ている感覚すらしてくるくらい見事だ。

 訳者あとがきに本書との不思議な出会い方のことが書いてある。気になったことが三点ある。

 訳者(酒寄進一)が本書に出会ったドイツ・エッセンの本屋のこと。訳者が二十年来探していた絶版本が当時の値段で売られていた。古本屋ではないので。こういう本屋をぼくも何軒か知っている。ただし、アイルランドで。いわば、特別な本屋だ。

 その本を訳者がレジに持っていくと、オーナーが、もう一度読みたいから、今は売れないと販売を拒否する。代わりに、この本をあげるから読んでみなさいといって渡されたのが本書だった。訳者は〈本をただでくれる本屋に出会ったのも生まれてはじめてだった〉と書く。ぼくもこういう店に出会ったことがある。探している絶版本がないか訊くと、店主はそれそのものはないけどと言いながら別の版を出してきて、ただでくれた。これもアイルランドだ。

 〈時代から疎外される芸術家〉のこと。ドイツにおける芸術家観の大きな転回点となったナチズムの台頭にからんで訳者が指摘する。〈時代が個人を置いてきぼりにしてどんどん進む〉状況のことだ。この問題が本書の主人公であるピアニストと、その敵である作曲家との対立にどのような影を落としているのか。そこのところが、実は本書を一回読んだくらいでは分からない。ドイツで出ている、著者らが演奏する2枚組CD(Nachleben - Der Soundtrack, Ruge, 2009)で音楽をじっくり聴きながら考えない限り、文字だけではおそらく解決がつかないだろう。

 本書や、そこに出てくる音楽や、本書を訳者にくれた本屋などは、一種不思議な波長でつながっている感じがする。この本に出会ったのも、その波長のせいかもしれない。

 著者によるショパンのワルツ(第七番嬰ハ短調、作品64・2)の演奏がコルトーばりであると訳者が書く。コルトーの古い録音を聴きながら本書が残した余韻について考えている。

 

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