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西ドイツがあった頃、東京のふたりは


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重松清『コーヒーもう一杯』文藝春秋、2011)

 

 ベルリンの壁が崩壊する前の、というから1980年代の東京が舞台だろう。19歳の「僕」と三歳年上の「彼女」がコーヒーを飲みながらかわす会話が本短篇のほとんどを占める。ほろ苦い青春のひとこまが、あの頃の時代を連れてくる感じがある。端正な文章が好ましい。

 初めて経験することなのに懐かしいことがある。それはいったいどういうことなのだろう。

 そのわけを「彼女」はこう説明する。

「逆なんだと思うよ」
「逆って?」
「コーヒーのことが、いま懐かしいわけじゃないの。これから懐かしくなるのよ。あなたはいま、未来の懐かしさを予感してるの。だから、なにも思いだせないのに懐かしいの」

それを聞いて「僕」はこう思う。

 SFの世界みたいだった。
 だが、「デジャ・ビュもそういうことなんじゃない?」と彼女が言うと、なるほど、そうかもしれないなあ、とうなずくしかなかった。
「いつか懐かしくなるのよ、この部屋でコーヒーを飲んでたことが」
 彼女はそう言って、ミルのハンドルを回しはじめる。

 このやりとりを読んで、アメリカの詩人フロストのある詩('The Road Not Taken')を想いだす。森の中の分かれ道と人生の岐路とを重ね合わせた詩だ。一般には人生を振返った詩と誤解されているが、実はこれからの人生のゆくすえを思い、いつかいまの自分のことを振返る日が来るだろうと詠う詩なのだ。

 こうした感覚と、わざと苦味の残るマンデリン・コーヒーをストレートで飲む本短篇の主人公とは、どこか重なる。彼はこう語る。

僕はもう、コーヒーにミルクや砂糖は入れない。苦味をそのまま味わいたい。なにも混ざらない香りをかぎたい。