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小説世界に没頭できる現代語訳


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林望『謹訳 源氏物語 一』祥伝社、2010)

 

和歌の処理は読みやすい

 「弘徽殿女御という人は、気が強く険のある人柄であった」などと書いてある(「桐壺」)。これはそのままだろう、よくわかることはわかるけれども。小説の地の文で読まされるとどうだろうか。

 和歌の処理は読みやすい。原文に現代語訳が併記してある。ここが唯一、原文の香りを感じさせるところ。『源氏物語』は800首弱の和歌を含む形式で書かれており、詩と文との処理の仕方は、この作品のかなめのひとつだろう。フランスでもシャントファーブル chantefable という詩文混交のジャンルがある。それに倣っていえば、ある意味では、これは「歌われた物語」であり、その点では、和歌のやりとりを会話文に直した翻訳(田辺聖子訳など)は、質的変更といえる。

散文と歌の混合形式

 一般的にいえば、散文と韻文とが混交する文体においては、物語のプロットは散文がすすめ、韻文は感情や情緒の高まりを表現する。いわば、そこが氷山のてっぺんに相当する。噴火といってもいい。このようなことはアイルランドスコットランドにおける、散文と歌(バラッドを含む)の混合形式でも起こる。つまり、物語に表された感情をつかむには、詩の部分の直接的理解は必須なのだ。

 『源氏物語』の言語構造の上でも歌の部分は重要だ。散文には敬語が文法上組込まれ、身分差が反映しているのに対し、歌はその埒外に存する。コミュニケーションのモードとして、感情の直接的やりとりが可能になる。ただし、この敬語の落差は本訳ではほとんど消えている。地の文の複雑な敬語を原則的に廃しているからだ。

冗長に見える恐れ

 本訳にもどる。わかりやすければいいのか。冗長に見えるという恐れをおかしてまで、わかりやすくするのがいいことなのか。散文が冗長であって、韻文がきりりと情緒を伝えるという交替は、全体の文体のリズムとしてどうなのか。果たして読者は違和感を憶えないのか。こうしたことが気にかかる。ただし、この文体はしばらく読んでいると慣れてくる。

 評者のように、詩が頂点であると認識して読み進める者にとってはやや物足りない訳というところがある。少なくとも、散文は詩歌をささえるだけの働きをしっかりとつとめるという気概をしめした訳を読みたい。

与謝野晶子

 言うは易く、行うに難しとは思う。上の箇所、与謝野晶子は「負けぎらいな性質の人で」とあるだけだ。原文はといえば、「いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて」とある。「おし立つ」は我を張るの意。「かどかどしい」は「性格・態度などにかどがある」の意。「ものす」は「居る」の意。いづれも広辞苑にあるということは現代でも使う言葉なのだ。こうしてみると、与謝野訳は「おし立つ」を中心に訳している。林訳は過不足がない。

 ふと思い立って橋本治を開くと<元々我が強く傲慢でさえもあるのが「弘徽殿の女御」と呼ばれる女だ。>とある。「かどかどしき」を踏み込んで訳している。

 与謝野晶子谷崎潤一郎も、生涯に三度、現代語訳を試みたほどの作品だ。これからも、あれこれ考えながら読む楽しみはつきない。

英語訳

 楽しみついでに、エドワード・サイデンステッカー訳を見ると、'Kokiden was of an arrogant and intractable nature' とあり、傲慢と解するのは橋本治訳だけではないとわかる。

 もうひとつ。評価の高いロイアル・タイラー訳だと、'The offender, willful and abrasive, seemed determined to behave . . .' とある。弘徽殿は悪者認定されている。

雨夜の品定め

 「帚木」の妻評定の場面(雨夜の品定め)は存外おもしろい。まるで男性心理の底をうがつような内容でありながら、これを女性が書いたのだと知るとよけいにおもしろい。源氏が「世の中にはいろいろな階級の女の面白みがあるものだ」と興味を広げるきっかけになった。

 「帚木」から「空蝉」にかけての強情な女、空蝉と源氏との関係も読ませる。「自分を蔑ろにすることあきれるばかり」と源氏に嘆かせるほどの女だ。しかし、それがゆえに、かえって源氏が気にかかってしかたないのはよくわかる。

生ひ立たむありかも知らぬ若草を

 本巻は「桐壺」「帚木」「空蝉」「夕顔」「若紫」の五帖を収める。その白眉はなんといっても次の歌だろう(「若紫」)。

生ひ立たむありかも知らぬ若草を
おくらす露ぞ消えむそらなき

 余命いくばくもない尼君(=露)が紫の君(=若草)の将来を思い遣るこの歌は源氏にとっても思い出深い。何重にも仕掛けがほどこされていて、味わいがつきない。基本的に新芽(若草)の元気なこと、老いた自分の覚束ないことの対照のうちに、この子の行く末が心配であることを表す。「そらなき」はややむずかしい。「そら」は空から転じて精神状態を表し、ここでは「心、気持ち」というか「心境」を表す。<とても消えてゆく心境になれない>の意。さらに考えると、まだまだ頑張らねばとの尼君の思いも仄見える。

 本巻を読み終わってしみじみと思うことは、源氏の世界がまざまざと思い浮かべば浮かぶほど、まことに京こそは日本の(精神的)中心であると感ぜられるということだ。『源氏物語』を(その歌を中心として)深く味わえば味わうほど、読者はその感を強くするのではないか。リーダブルという評言は英文図書に関して使うと褒め言葉の一種だ。本書はリーダブルな点に関してこの上ない。