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ホメーロスの描く空はなぜ「青」でないのか


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ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(インターシフト、2012)
Guy Deutcher, Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages (2010)



 普遍文法という考え方がある。言語はいろいろあっても、人間は生まれながらに普遍文法を持っており、そこから人類共通の生成原理によって各言語が獲得されるとする理論である。提唱者のノーアム・チョムスキが死ねば消え去ると悪口をいわれもするが、現今はこれが主流派である。

 これに対し、言語は人間の思考に決定的な影響を与え、言語ごとに思考は変わってくるとする立場がある。一般には「サピア=ウォーフの仮説」とか言語(的)相対論と呼ばれる。

 この両陣営は論争をつづけてきており、ときによってどちらかが優勢になったり劣勢になったりしている。まだまだ決着はつきそうにない。

 本書は、言語は思考を規定することはないけれども、認知・記憶・連想などに大きな影響を与え、補正するくらいの力はあるとする。つまり、両論の真中よりは少し相対論寄りである。その端的な例として色彩の知覚などの例を挙げる。


 原題はもちろん、ルーイス・キャロルの児童文学『鏡の国のアリス』(Through the Looking-Glass, and What Alice Found There)のパロディだ。キャロル作では、アリスが鏡の向こう側の世界に行ってしまう話だけれども、本書ではそこに掛けつつ、言語という鏡(glass)の向こう側には何があるのか、言語を鏡として見れば何が見えるのかの意(第1部)と、それから、言語というレンズ(glass)でのぞけば世界はどう違って見えるのかの意(第2部)の、両方をこめている。

 著者のドイチャーは言語学者だが、元々の専門は古代近東言語のアッカド語(Akkad, Accad)である。本書で扱われる言語やそれにからむ問題は幅広い。

 言語はその国の文化を反映するので、異文化交流が簡単でないケースもある。例えば、未来形を持たない言語があり、「その言語の話し手は当然ながら未来という概念を理解することができない」。どこかの国にあった政党名はまったく理解されないことになる。古代のバビロニア語では罪と罰のふたつの概念が同じ単語で表された。ドストエフスキの作品を読んだとしたら理解に苦労したろう。


 しかし、話はそう単純ではない。表したい概念の語彙が欠けていたら、よその言語から借用するなどのことはふつうに起きる。現にヨーロッパの言語では思索の用語はラテン語から借りているし、ラテン語のほうは足りない表現をギリシア語から借りている。

 評者はふだんはアイルランド語の読書きをしているが、アイルランド語にはない概念を表そうとするとき、英語の単語をそのままアイルランド語の文法内に組込んで使うなどは日常茶飯事である。逆に、英語では表すことが困難なアイルランド語の表現は枚挙に暇がなく、結果としてアイルランド語詩歌についての博士論文は英語でなくアイルランド語で書かれることが多い。仮に英語で書いたとしても、肝心のところはアイルランド語を借りざるを得ない。ふだんは英語を使うアイルランド人の場合でも首相を表す単語はアイルランド語しかない(taoiseach)。


 このように、言語と文化や思考との関係は一筋縄ではいかない。両者の関係について、いまだに論争がつづく所以である。話を一般化すると問題は単純化されるように見えるのだが、いったん個別の特定言語の具体的特徴について考えだすと、ことはそう簡単に割り切れなくなる

 ホメーロス叙事詩を読むと、「葡萄色の海」などの印象的な句が頻出するが、「青い空」の表現には不思議に出くわさない。なぜなのだろうか。そんな色の知覚を手がかりにして、言語学者ではない一般の読者向けに、言語と思考にからむ興味深い問題をいろいろな角度から探求した本書は、人間とは何かを探る一助ともなるだろう。おもしろい。2010年の年間ベストブック賞を多数獲得しているのも頷ける。