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チトはなぜみどりのゆびを持っていたのでしょう


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モーリス・ドリュオン『みどりのゆび』 (岩波書店、1965) 〔以下、ページ数はこの表紙のハードカバー版〕
Maurice Druon (1918-2009): Tistou, les pouces verts, 1957. 〔チストゥー、みどりのおやゆび(複数)〕



 本書のなかほどにこんな言葉が出てくる。

おとなというものは、説明できないものをむりやりに説明しようとする、へんなくせがあります。(77ページ)


ある意味で、本書をどう受取るかの試金石はここにある。つづけて、こうも書いてある。

なにかあたらしいできごとがおきると、それがじぶんの知っていることに似ている、とむちゅうになって証明したがるものです。(77ページ)


これは、したり顔で説明したくなる評論家などにも当てはまるかもしれない。

 かつて、こういう陥穽にはまらず、説明できないものを説明できないままに置いておく能力を偉大な詩人の必須の能力と考えた英国の詩人がいた。ジョン・キーツJohn Keats)である。彼はその能力を消極的能力(negative capability)と呼んだ。性急に結論を求めず不確実な状態のままとどまれる能力のことである。もちろん、ロマン主義文芸のだいじな柱のひとつとなった。

 この考え方は当時の学者たちと摩擦を引起しただろう。本書にはおもしろいことが書いてある。

花の種類はかぞえきれないほどありますが、それにくらべて、植物学者には三種類しかありません。つまり、優秀な学者と、有名な植物学者と、地位の高い植物学者です。植物学者たちは、あつまるとたがいにつぎのように呼びあって挨拶します。《・・・・・・先生》とか、《・・・・・・教授》とか、あるいは《尊敬すべき同志・・・・・・》というふうにです。(80ページ)


しかし、かれらがいくら調べても考えても、チト(主人公の男の子)がひと晩で刑務所に花を咲かせたわけはつきとめられなかった。庭師のひげさんが予想したとおりに。かわりに「囚人たちは、みんな園芸がすきになっていました」。でも、だれよりもいちばんよろこんだのはチトで、思わず子馬のジムナスティクにこうささやきかけた。

ぼくすばらしいことをみつけたんだ。・・・花って、さいなんがおこるのをふせぐんだよ。


 なぜ、チトがこんなことができるのか、ですか? そのわけは、本書をお読みください。