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長谷川三千子「人間精神のひそやかな声を聞き取る」


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 理系の高等教育改革についてはよく話題になるが、文系のそれは論じる人が少ない。理系だと、たとえば こちら で少し展望が得られる。

 産経新聞7月30日付朝刊「正論」の長谷川三千子さんの文章は文系の問題を論じた貴重なものである。この文章は、本ブログが主テーマとするアイルランド語詩歌の問題を考えるうえで重要な示唆を含む。ただし、この文章は決して「改革」そのものをよしとする立場では書かれていない。むしろ、「浮世ばなれこそが大学の社会貢献の核」とする立場で書かれている。

大学は研究と教育の機関であり、両者は車の両輪のやうなものだといふことがよく言はれる。これは正しい。ただし忘れてならないのは、その両輪をつないでゐるのが「学問」といふ一本の太い軸なのだといふことである。これを欠いて、ただ「教育ニーズ」にだけ応じたりすれば、大学は、英語塾やパソコン教室等々が、何の脈絡もなく先端的研究と並存する、何とも珍妙な場所となつてしまふであらう。

 これは当然の話。しかし、現実にはこの心棒にひびの入った教育機関もあるかもしれない。そうであれば、その車はやがて走れなくなる。まさか、文部科学省はそれを狙っているのでもあるまいが。

それらの〔哲学をはじめとする人文諸〕学問は、かならず何らかの形で人間の精神そのものがかかはつてゐる学問であり、言ふならば、人間精神のひそやかな声を聞き取ることでなり立つてゐる学問である。したがつてそこでは、現実社会から超然とした、或る静けさの保たれた場が確保されてゐるといふことが、必要不可欠のこととなる。それはちやうど、音楽を十全に楽しむには静けさの保たれたホールが必要であるのと同様である。社会学文化人類学のやうに、現実の人間社会を対象とし、実地調査を旨とする学問であつても、それが「学問」へと熟するためにはさうした場が不可欠なのである。

 これが今回の文章で最も重要な部分である。つまり、人文諸学問は人間精神のひそやかな声を聞き取ることでなり立つてゐる学問である。この喩えに音楽ホールが使われているのはまことに適切。ことに、詩歌を研究する人にはこのことは切実。詩歌そのものが「人間精神のひそやかな声」をすくい上げたものである。つまり、そのままでは聞こえないものを聞こえるように、あるフォルマを与えたものである。そのような意識がなければとても研究できない。

 そんなことを実感させてくれる CD に Caitlin Maude: 《Caitlin》 がある。夭折した天才詩人にして歌い手である。レヴューを こちら に書いた。彼女はカスラ出身だが、RTE のアイルランド語放送局もカスラにあり、日々、アイルランド語のひびきを世界に届けている。

 シネード・オコナーの 'Sometimes whispers can be just as powerful as screams can.' という言葉を想いだすのは私だけではあるまい。これは 《From a Whisper to a Scream: The Living History of Irish Music》 なる DVD での言葉。私のレヴューはこちら

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