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mythopoeiaとしてのSF

アーサー・C・クラーク地球幼年期の終わり【新版】 (創元SF文庫、2017)

 

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アーサー・C・クラーク(1917-2008、英国のSF作家)の生誕百年にあたり、今やSFの古典の名を不動のものにしている『地球幼年期の終わり』が新版として、東京創元社から創元SF文庫の一つとして刊行された。ただし、新版といっても、1969年に初版が刊行された沼沢洽治訳を、遺族の了解のもと訳文を見直し、さらに渡邊利道の解説を加えて刊行したものである。

したがって、まずこの「新版」のみにかかわることを述べると、「目をそむけたくなるなるのをこらえた」(330頁)は目をそむけたくなる誤植である。「喩えて言えば、時間は閉ざされた輪のようなもので、未来から過去へと、歪められた事実がこだまして伝わってしまったということになる。」(339頁)は意味不明である。せめて「時間は閉じた輪」とでも表現できないか。輪が閉じているからこそ、未来から過去への回路が出現したとしか理解できない。原文は 'the closed circle of time' だ。

この二点を除き、本書の訳は大変読みやすい。SFの形で綴る未来史を初めて読む場合でも、おもしろいだろう。古典として今も読むにたえる作品である理由がじっくり味わえる。ただし、クラークの1979年の作品『楽園の泉』がヒューゴー賞ネビュラ賞を受賞しているのに比べると、なぜか本作は何も受賞していない。だが、人気の方は発売当初から大いにあり、刊行から2ヶ月後には初版21万部が完売したほどである。その後も、この書は音楽家に影響を与えたり、キューブリック監督にインスピレーションを与えて映画「2001年宇宙の旅」に結実したりした。ただ、キューブリックは本作を原作とすることができず、代わりにクラークの短篇「番人」(「前哨」)を元にして、二人でコラボレーションの形で映画を作りあげた。

本書に関してはファンタジー作家のC・S・ルイスが、後に妻となる女性に宛てた手紙で綴った率直な書評がよく知られている。本書はクラーク作品の系譜においてみるときに、ハードSFの系譜と、思弁的SFの系譜の両方の要素が融合しているので、まともに論じるのはかなり大変である。そこで、ルイスの作家ならではの視点で、ここがよく書けている、ここが駄目だ、などの歯に衣着せぬ評言は参考になる。1953年12月22日付の Joy Davidman 宛の手紙を見てみよう。ちなみに、本書が刊行されたのは1953年8月24日のことだ。

ルイスは、何も期待せずに本書を読んだところ、驚嘆してしまったと、次のように述べている。

. . . I came to it expecting nothing in particular and have been thoroughly bowled over. It is quite out of range of the common space-and-time writers; away up near Lindsay’s 'Voyage to Arcturus' and Wells’s 'First Men in the Moon'. It is better than any of Stapleton’s. It hasn’t got Ray Bradbury’s delicacy, but then it has ten times his emotional power, and far more mythopoeia.

ここで注目すべきは最後の文でブラッドベリと比較しているところだ。ブラッドベリほどの繊細さはないものの、情緒の力において十倍、そしてはるかに多くの 'mythopoeia' を有していると述べている。'mythopoeia' と は 'mythmaking'「神話をつくること」の意で、ルイスにあっては重要な語である。この語を使っているからといって絶賛していると即断することはできないけれど、ブラッドベリにはない神話形成力をこの作品に見ていることは確かだ。



情緒の面で、本作を読んで涙したところを挙げているのが参考になる。ルイスは次の箇所を挙げている。

The first climax, pp 165–185 brought tears to my eyes. There has been nothing like it for years: partly for the actual writing––‘She has left her toys behind but ours go hence with us’, or ‘The island rose to meet the dawn’, but partly (still more, in fact) because here we meet a modern author who understands that there may be things that have a higher claim than the survival or happiness of humanity: a man who cd. almost understand ‘He that hateth not father and mother’ and certainly wd. understand the situation in Aeneid III between those who go on to Latium & those who stay in Sicily.

最初の文は、ジョージとジーンの夫妻の娘ジェニファが出ていった場面だ(21章)。本書では「あの子は玩具(おもちゃ)を置いていった、でもわれわれ二人は持っていこう」と訳される。ここは確かに胸をしめつけられるところだ。次の文も同じ21章で、章の終わりの文だ。本書で「島は暁(あかつき)を迎えて空に舞い上がった」と訳される。読者の心にふかい余韻を残す。

しかし、こういう文体のすばらしさよりも恐らくもっとルイスに感動を与えたのは、〈世の中には人類の生存とか幸福よりも大事なことがあるかもしれないということを理解する現代作家〉に本書で出会えたことだ。これはただちに人間存在をめぐる思想上の問題に直結する。

事実、ルイスは続けて神学的な課題に言及する。新約聖書ルカによる福音書14章26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」の箇所だ。つまり、キリストの弟子となる条件として父母や兄弟を、さらに自分の命を憎むことが要求されている。子供がより高い目標のために家族の絆を断つこともあることが示唆される。

こういう、いわば「出家」をSF的に展開する現代作家がいることにルイスは感銘を受けたのだ。『アエネーイス』においても、イタリアへ渡る人々がいなければ、ローマの基礎は築かれなかった。新天地の開拓者はそれまでの絆を捨てるのである。



神話の面で、ルイスは深遠なことばを用いて次のように述べるのみだ。

We are almost brought up out of psyche into pneuma. I mean, his myth does that to us imaginatively.

プシュケーからプネウマへの方向が、本書の Overlord〈上主〉から Overmind〈主上心〉への方向に対応するのだろう。

これ以上、神話について言及がないのは、ひょっとすると、もうひとつの「脱神話化」を念頭に置いているのかもしれない。本書の〈上主〉が人類の記憶にある、ある忌まわしい存在に似た姿だとされることは読者に衝撃をもたらす。ある意味で、従来の神話の逆転に当たる。その点では、新たな神話の創出とも言える。



全体として、本書は科学を超えた宇宙論の彼方を指ししめすような壮大な構想を有する。人類と地球の関係、宇宙における人類の運命、宇宙の尺度における物質と精神。これらのことについて、哲学的・神学的な思索を誘うような懐の深さと魅力的な物語を備えた作品だ。世界文学の傑作。

 

 

 

 

祈りの力と病気について霊的成長の観点から論じる

花咲 てるみ『なぜ祈りの力で病気が消えるのか いま明かされる想いのかがく』(明窓出版、2017)

 

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本書は祈りの力でなぜ病気が消えるのかをテーマにしている。

しかし、議論は祈りから始まらず、生れ変わりから始まる。転生を前提として、心に二つあること、体に二つあることを説く。

この冒頭からの議論は、人によっては、作者の思い込みをただ押しつけられるだけと感じるだろう。議論の運びが性急で、ピンと来ない人にとっては、ついてゆくことができない。

しかし、多少なりともこの種の議論に親しんでいて、ここで展開される概念になじみがあれば、理解はそう難しくない。

それよりも、祈りを問題にするのに、なぜ最初に転生のことを問題にせねばならないのかを明らかにすることが必要だろう。でないと、これらの概念に親しんでいる人でも、本書の存在意義が読んでいて分からないことになる。

第一章「心と体を知る」はそのように、転生と霊界のことを通じて魂のあり方を説く。本書のテーマに関係がありそうなことがやっと見えてくるのが

人間同士でも気持ちを伝えることは大切ですが、霊になっても同じです。姿は見えていなくても、わたしたちが送った感情は届きます。

のところだ(31頁)。つまり、霊とのコミュニケーションの存在のことである。

第二章「病気とは何か」で、病気を心が作りだしたと述べた後、第二の原因として、転生とからめてこう書く(77頁)。

もう一つの病気の原因は、今世または過去世で作ったカルマです。



第三章「宇宙」で、神社仏閣に参る時の心の整え方を書く。また、自宅で静かな時間を持ち、祈るための呼吸法についても書く。著者によれば、「息」とは「自らの心」である。ここに書いてある呼吸への意識の向け方はマインドフルネスのそれと少し似ている。

第四章「すべての答えはあなたの中にある」で、現実の背後にある広大な目に見えない世界を知るには、心の中にある扉の鍵を開ける必要があると書く。霊的成長の観点から、物質的なことを優先するのでなく霊的なこと、特に家族や仲間と愛情を分かち合うことを最優先課題として生きるべしと書く。

本書はこの後、第五章「認知症を知る」、第六章「祈り」を以上のいわば応用問題として展開し、おだやかに閉じられる。唯心論的なアプローチではあるが、魂の転生に関する部分にさまざまな議論があり得るものの、全体として、有益な書である。

 

 

 

なぜ祈りの力で病気が消えるのか? いま明かされる想いのかがく

なぜ祈りの力で病気が消えるのか? いま明かされる想いのかがく

 

 

発光しそうな短篇

森鷗外「花子」

 

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発光しそうな短篇

 

森鴎外の短篇「花子」を読む。短篇の名手として有名だが、それだけでなく、散文詩のような味わいがある。

ロダンの為事場の描写。
〈或る別様の生活がこの間を領している。それは声の無い生活である。声は無いが、強烈な、錬稠せられた、顫動している、別様の生活である。〉

その為事ぶり。
〈日光の下に種々の植物が華さくように、同時に幾つかの為事を始めて、かわるがわる気の向いたのに手を着ける習慣になっているので、幾つかの作品が後れたり先だったりして、この人の手の下に、自然のように生長して行くのである。この人は恐るべき形の記憶を有している。その作品は手を動さない間にも生長しているのである。この人は恐るべき意志の集中力を有している。為事に掛かった刹那に、もう数時間前から為事をし続けているような態度になることが出来るのである。〉

モデルの花子を見つめる描写。
ロダンは花子の小さい、締まった体を、無恰好に結った高島田の巓から、白足袋に千代田草履を穿いた足の尖まで、一目に領略するような見方をして、小さい巌畳な手を握った。〉

ロダンが花子に問う。
〈「度々舟に乗りましたか。」
「乗りました。」
「自分で漕ぎましたか。」
「まだ小さかったから、自分で漕いだことはございません。父が漕ぎました。」
 ロダンの空想には画が浮かんだ。そしてしばらく黙っていた。ロダンは黙る人である。〉

鴎外の文章の密度の高さは単に濃度を示すのでなく、パウンドのいう「荷電した」charged に近い。散文より韻文にちかい電圧 voltage を感じさせる。いまにも発光しそうな言葉だ。

 

 

花子

花子

 

 

 

過労死の科学的判定をめぐるミステリ

松岡圭祐水鏡推理6 クロノスタシス(講談社、2017)

 

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過労死の科学的判定をめぐるミステリ
 
省庁における過労死事例の多発などを受け、過労死を客観的に判定する「バイオマーカー」が提唱された。その危険値を超えた者は過労死の危険ありとして休養が命じられる。労働環境の改善につながる画期的な基準である。

そのマーカーの承認の可否を審議するにあたり、検証作業を任された水鏡瑞季と須藤のチームは、過労死した官僚を順に調べて行く。ところが最初の事例で奇妙な壁にぶつかる。

過労死した疑いのある男性の婚約者の所在がつかめないのだ。男性の死に至る状況を証言したのが婚約者であるから、死亡状況を深く知る上で事態は深刻である。調べても調べても、その女性が実在した証拠が出てこない。一体どうなっているのか。

手がかりを求めて各方面にあたるうちに、瑞季は奇妙な一連の出来事に遭遇する。この事案を取材した週刊誌には箝口令が敷かれ、担当した警察官とも連絡がとれなくなる。まるで、過労死研究に対し目に見えない圧力が働いているかのようだ。

そのうちに、瑞季と須藤にも大量の警察官による監視体制がとられるようになり、外にいても事実上の軟禁状態に置かれるようになる。なぜこうなるのか。過労死の実態を明らかにすることに何らかの不都合が存在するのか。

瑞季らの調査が佳境に入るあたりから物語は一挙に加速し、息もつかせぬ展開になる。著者が得意の「人の死なないミステリ」には珍しく、死を直接に扱うミステリながら、現代人の労働環境について深く考えさせ、感動的な人間ドラマをも垣間見させてくれる傑作。

表題の「クロノスタシス」は時間に関する錯覚の一種。すばやい眼球の移動(saccade)などのあとで目をとめた対象における、時間(クロノス)の持続(スタシス)が通常より長く知覚されること。たとえば急にアナログ時計を見たときに秒針が一瞬とまって見えるような現象。聴覚や触覚でも起きる。クロノスタシスが起きるのが正常。これが物語の一つの伏線になる。
 

 

水鏡推理6 クロノスタシス (講談社文庫)
 

 

 

 

栞子をめぐる人間関係が着地点を迎えるのか。シェークスピアを補助線とする波乱の物語

三上延ビブリア古書堂の事件手帖7 ~栞子さんと果てない舞台~』
 

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ビブリア古書堂シリーズの完結篇。ついに主人公・栞子をめぐる人間関係が一応の着地点を迎えることになるのか。

本当にこれで終わりだと思ったら、作者あとがきによると、今後も、書けなかった余談や副筋などの前日譚や後日譚がスピンオフの形で続くことになる。

本作はシェークスピアのファースト・フォリオ本を主軸に物語が展開する。シェークスピアの専門家が読んでも面白いのではないかと思えるくらい、興味深い面も出てくる。巻末の参考文献表は圧巻だ。

ファースト・フォリオとはシェークスピア(1564-1616)死後の1623年に劇団仲間によってまとめられた初のシェークスピア全集。

本書で(改めて)気づいた点がいろいろある。少し挙げてみる。
・没年(1616)が徳川家康(1542-1616)と同じ。日本の年号で元和2年だった。
・戯曲の題に法則。悲劇・歴史劇などシリアスな劇は登場人物の名前をつける
・900頁のファースト・フォリオを刷るのに二年かかった
・オクシモロン……撞着語法。矛盾した内容を示す表現。彼の戯曲に多い
・なんにも予定がないのが大人にとって最高の贅沢なの(五浦恵理のことば)

物語の本質的な人間関係が『リア王』のリアと道化の関係に似る。

コーディーリアを失ったリアの慟哭('My poor fool is hang'd')が引用される。リアの道化は頭がいい。物語の道化も頭がいいが、リアのセリフはある意味で暗示的だ。

五浦は栞子のパートナーとして能力が低いと智恵子に断じられるが、志田の励ましのことばが胸を打つ。

「そりゃお前は凡人だろうよ。これからの人生で、いつかあの姉ちゃんはお前から離れていくかもしれねえ……でも、それがどうした」

果たして五浦は勇気をふるって運命を切開くことができるのか。
 
 

秘密を持った子供は時として「無邪気な子供」を演ずる必要がある

森奈津子『語る石』(e-NOVELS, 2017)

 

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 森奈津子の短篇小説「語る石」(e-NOVELS)は幼い子が父の机の上にふしぎな石を見つけるところから始まる。

 その石は子供である麻衣子に様々なことを語り聞かせる。その中で、心に最も強く残ったのは、「人間の肉体と魂の関係についての考察」だった。

「肉体は魂の錘(おもり)なんだ」

 小学校にあがる前の麻衣子には難しい言葉だ。だが、石は「肉体」や「魂」といった言葉を説明して聞かせた。

「魂は空気より軽いもんだから、上へ上へと昇りたがる。その魂をしっかりと大地に押さえておくのが、肉体なんだ」

 石は続ける。

「だから、おまえも油断するなよ。ボーッとしてると、すぐに死んじまうぞ。風船みたいな自分の魂を、しっかりつかまえておけよ。わかったな?」

 肉体は魂の錘——それが真実か法螺かは麻衣子には判断しかねる。ただ、石が語るその話がとても好きだ。

 ある日、石はとんでもないことを麻衣子に語る。そして、ある指令を発する。麻衣子はどうするのか。

「秘密を持った子供は時として『無邪気な子供』を演ずる必要がある」ことを麻衣子は再確認する。

 秀逸な短篇だ。

 

 

 

語る石 (e-NOVELS)

語る石 (e-NOVELS)

 

 

濃密な幻想世界を描く短篇

皆川博子『雪花散らんせ』

 

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著者65歳の時の作品。『あの紫は ― わらべ唄幻想』(1994)に収録。

2017年になって e-NOVELS から発行された。e-NOVELS は1999年に始まった、プロの作家集団によるオンライン販売。最近、Kindle にも入ってきたようだ。1999年当時は株式会社アスキー・株式会社アスキーイーシーと共同でオンライン販売を行っていた。

この2017年刊の作品の奥付には次の説明がある。

e-NOVELS とはプロの作家が、編集者や出版社を介さず自分たちで自由にセレクト、編集した作品を発表する団体です。小説や評論など過去に雑誌掲載されたものから、書籍化された作品、書き下しまで、幅広いジャンルを取り扱っています。

Kindle Singles に似ている。が、大手出版社も含まれる Kindle Singles とは違い、e-NOVELS の方は作家が主体だ。

***

皆川博子は80代で現役の作家である。この65歳の時の作品も、切れば血が出そうな鋭い感性が横溢している。

短篇でこれだけの濃厚な幻想世界を作りだせるのには驚くほかない。

冒頭のわらべ唄が独特のトーンで作品の基調を導きだす。

雪花散らんせ
空に花咲かんせ
薄刃腰にさして
きりりっと
舞わんせ

これは果たしてどういうわらべ唄なのだろうと読者は思う。その意味について何の解説もされぬまま、物語は作家の仕事場から始まる。ふと気づくと、足もとに封書が落ちている。宛先に自分の名があるが、「奇妙なことに、住所の記載もなく、切手も貼ってない」。一体、どうやって届いたのか。

封を切ると四つに折りたたまれた便箋が入っている。新聞に書いたエッセイ「雪花散らんせ」への感想とともに、エッセイで触れた木版画の画家は祖父ではないかと記されている。なつかしいので一度お目にかかりたいという趣旨であった。

「雪花散らんせ」は、版画を目にして以来、しばしば見ている夢に出てくるわらべ唄である。これで冒頭の唄の由来が判明するわけであるが、むしろ謎は深まる。夢の情景は降りしきる葩びらで占められているにもかかわらず、歌は舞う雪をうたう。葩と雪とが同居している。夢ならではの不合理な世界なのか。くっきりしていると同時に歯がゆいほど朧げな夢。

この版画に描かれた満開の桜の木の下の立ち姿が、作品のもう一つの基調となり、短篇が展開する。冒頭の謎が波紋を描きつつ別の謎が輪をなして重なり、現実と夢と唄との境が朧げになってゆく。

その幻想性は短篇であることを忘れるほどに濃密だ。なお、版画に描かれた人物、三代目 澤村田之助は皆川作品に時折でてくる。幕末から明治にかけての実在の歌舞伎役者だ。その生涯を綴る皆川の長編小説『花闇』(1987)もある。

 

 

 

雪花散らんせ (e-NOVELS)

雪花散らんせ (e-NOVELS)