過労死の科学的判定をめぐるミステリ
そのマーカーの承認の可否を審議するにあたり、検証作業を任された水鏡瑞季と須藤のチームは、過労死した官僚を順に調べて行く。ところが最初の事例で奇妙な壁にぶつかる。
過労死した疑いのある男性の婚約者の所在がつかめないのだ。男性の死に至る状況を証言したのが婚約者であるから、死亡状況を深く知る上で事態は深刻である。調べても調べても、その女性が実在した証拠が出てこない。一体どうなっているのか。
手がかりを求めて各方面にあたるうちに、瑞季は奇妙な一連の出来事に遭遇する。この事案を取材した週刊誌には箝口令が敷かれ、担当した警察官とも連絡がとれなくなる。まるで、過労死研究に対し目に見えない圧力が働いているかのようだ。
そのうちに、瑞季と須藤にも大量の警察官による監視体制がとられるようになり、外にいても事実上の軟禁状態に置かれるようになる。なぜこうなるのか。過労死の実態を明らかにすることに何らかの不都合が存在するのか。
瑞季らの調査が佳境に入るあたりから物語は一挙に加速し、息もつかせぬ展開になる。著者が得意の「人の死なないミステリ」には珍しく、死を直接に扱うミステリながら、現代人の労働環境について深く考えさせ、感動的な人間ドラマをも垣間見させてくれる傑作。
表題の「クロノスタシス」は時間に関する錯覚の一種。すばやい眼球の移動(saccade)などのあとで目をとめた対象における、時間(クロノス)の持続(スタシス)が通常より長く知覚されること。たとえば急にアナログ時計を見たときに秒針が一瞬とまって見えるような現象。聴覚や触覚でも起きる。クロノスタシスが起きるのが正常。これが物語の一つの伏線になる。
栞子をめぐる人間関係が着地点を迎えるのか。シェークスピアを補助線とする波乱の物語
本当にこれで終わりだと思ったら、作者あとがきによると、今後も、書けなかった余談や副筋などの前日譚や後日譚がスピンオフの形で続くことになる。
本作はシェークスピアのファースト・フォリオ本を主軸に物語が展開する。シェークスピアの専門家が読んでも面白いのではないかと思えるくらい、興味深い面も出てくる。巻末の参考文献表は圧巻だ。
ファースト・フォリオとはシェークスピア(1564-1616)死後の1623年に劇団仲間によってまとめられた初のシェークスピア全集。
本書で(改めて)気づいた点がいろいろある。少し挙げてみる。
・没年(1616)が徳川家康(1542-1616)と同じ。日本の年号で元和2年だった。
・戯曲の題に法則。悲劇・歴史劇などシリアスな劇は登場人物の名前をつける
・900頁のファースト・フォリオを刷るのに二年かかった
・オクシモロン……撞着語法。矛盾した内容を示す表現。彼の戯曲に多い
・なんにも予定がないのが大人にとって最高の贅沢なの(五浦恵理のことば)
物語の本質的な人間関係が『リア王』のリアと道化の関係に似る。
コーディーリアを失ったリアの慟哭('My poor fool is hang'd')が引用される。リアの道化は頭がいい。物語の道化も頭がいいが、リアのセリフはある意味で暗示的だ。
五浦は栞子のパートナーとして能力が低いと智恵子に断じられるが、志田の励ましのことばが胸を打つ。
「そりゃお前は凡人だろうよ。これからの人生で、いつかあの姉ちゃんはお前から離れていくかもしれねえ……でも、それがどうした」
果たして五浦は勇気をふるって運命を切開くことができるのか。
ビブリア古書堂の事件手帖7 ~栞子さんと果てない舞台~ (メディアワークス文庫)
- 作者: 三上延
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2017/02/25
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秘密を持った子供は時として「無邪気な子供」を演ずる必要がある
森奈津子『語る石』(e-NOVELS, 2017)
森奈津子の短篇小説「語る石」(e-NOVELS)は幼い子が父の机の上にふしぎな石を見つけるところから始まる。
その石は子供である麻衣子に様々なことを語り聞かせる。その中で、心に最も強く残ったのは、「人間の肉体と魂の関係についての考察」だった。
「肉体は魂の錘(おもり)なんだ」
小学校にあがる前の麻衣子には難しい言葉だ。だが、石は「肉体」や「魂」といった言葉を説明して聞かせた。
「魂は空気より軽いもんだから、上へ上へと昇りたがる。その魂をしっかりと大地に押さえておくのが、肉体なんだ」
石は続ける。
「だから、おまえも油断するなよ。ボーッとしてると、すぐに死んじまうぞ。風船みたいな自分の魂を、しっかりつかまえておけよ。わかったな?」
肉体は魂の錘——それが真実か法螺かは麻衣子には判断しかねる。ただ、石が語るその話がとても好きだ。
ある日、石はとんでもないことを麻衣子に語る。そして、ある指令を発する。麻衣子はどうするのか。
「秘密を持った子供は時として『無邪気な子供』を演ずる必要がある」ことを麻衣子は再確認する。
秀逸な短篇だ。
濃密な幻想世界を描く短篇
皆川博子『雪花散らんせ』
著者65歳の時の作品。『あの紫は ― わらべ唄幻想』(1994)に収録。
2017年になって e-NOVELS から発行された。e-NOVELS は1999年に始まった、プロの作家集団によるオンライン販売。最近、Kindle にも入ってきたようだ。1999年当時は株式会社アスキー・株式会社アスキーイーシーと共同でオンライン販売を行っていた。
この2017年刊の作品の奥付には次の説明がある。
e-NOVELS とはプロの作家が、編集者や出版社を介さず自分たちで自由にセレクト、編集した作品を発表する団体です。小説や評論など過去に雑誌掲載されたものから、書籍化された作品、書き下しまで、幅広いジャンルを取り扱っています。
Kindle Singles に似ている。が、大手出版社も含まれる Kindle Singles とは違い、e-NOVELS の方は作家が主体だ。
***
皆川博子は80代で現役の作家である。この65歳の時の作品も、切れば血が出そうな鋭い感性が横溢している。
短篇でこれだけの濃厚な幻想世界を作りだせるのには驚くほかない。
冒頭のわらべ唄が独特のトーンで作品の基調を導きだす。
雪花散らんせ
空に花咲かんせ
薄刃腰にさして
きりりっと
舞わんせ
これは果たしてどういうわらべ唄なのだろうと読者は思う。その意味について何の解説もされぬまま、物語は作家の仕事場から始まる。ふと気づくと、足もとに封書が落ちている。宛先に自分の名があるが、「奇妙なことに、住所の記載もなく、切手も貼ってない」。一体、どうやって届いたのか。
封を切ると四つに折りたたまれた便箋が入っている。新聞に書いたエッセイ「雪花散らんせ」への感想とともに、エッセイで触れた木版画の画家は祖父ではないかと記されている。なつかしいので一度お目にかかりたいという趣旨であった。
「雪花散らんせ」は、版画を目にして以来、しばしば見ている夢に出てくるわらべ唄である。これで冒頭の唄の由来が判明するわけであるが、むしろ謎は深まる。夢の情景は降りしきる葩びらで占められているにもかかわらず、歌は舞う雪をうたう。葩と雪とが同居している。夢ならではの不合理な世界なのか。くっきりしていると同時に歯がゆいほど朧げな夢。
この版画に描かれた満開の桜の木の下の立ち姿が、作品のもう一つの基調となり、短篇が展開する。冒頭の謎が波紋を描きつつ別の謎が輪をなして重なり、現実と夢と唄との境が朧げになってゆく。
その幻想性は短篇であることを忘れるほどに濃密だ。なお、版画に描かれた人物、三代目 澤村田之助は皆川作品に時折でてくる。幕末から明治にかけての実在の歌舞伎役者だ。その生涯を綴る皆川の長編小説『花闇』(1987)もある。
レ・ファニュの意外な一面を表す表題作
J・S・レ・ファニュ『ドラゴン・ヴォランの部屋』(創元推理文庫、2017)
アイルランドの作家シェリダン・レ・ファニュ(1814-73)の日本における作品集の第2弾。第1弾『吸血鬼カーミラ』(平井呈一訳、1970)から47年経っている。
短編4本、中編1本が収められている。この作品集に対する評価は読む人の立場によって変わるだろう。怪奇幻想小説を求めて読むと満足度はおそらく低い。超自然要素を含むポーばりのサスペンス小説をアイルランドとイングランドを舞台に展開した文学と考えればおそらく高評価になる。ジェーン・オースティンとの影響の相互関係がある作家という角度で読めば、それなりに興味深い。どの立場から読むにせよ、レ・ファニュの語り口はリーダブルで、親しみやすい。ただ、アイルランドに関心がある人が読むと、アイルランドの物語とは思えない固有名詞の表記で興ざめする点は多々ある。
純然たる小説のおもしろさという観点からいうと、表題作が群を抜いている。ミステリの要素をふくんだ恋愛小説に、生きながらの埋葬という恐怖と、得体の知れないシナ人占いとを加えた、一種独特の味わいがある。200ページ近くあるけれど、フランスを舞台にした波瀾に富んだ展開で飽きさせず、短い章を連ねた読みやすい作品だ。
イングランド北部を舞台にアイルランドの妖精譚のような人さらいの物語を綴る「ローラ・シルヴァー・ベル」もおもしろい。イングランドでもアイルランドの民間伝承と同様の伝承があったのだとすれば、大変興味深い。
ドラゴン・ヴォランの部屋 レ・ファニュ傑作選 (創元推理文庫)
- 作者: J・S・レ・ファニュ
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2017/01/21
- メディア: Kindle版
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平成という元号の知られざる成立史
読み終わった後もその本の世界がしっかりと残る書物がある。
この本はそういう書物だ。
小説だけれど、小説ではない。平成という元号がどうやって決まったかをかぎりなく真相に近くまで描く点ではノンフィクションだ。
もちろん、主人公を含む登場人物の名前は多くがフィクションだ。しかし、肝腎なところは本当のことが書かれていると強く思わせられる。
それは作者の筆力がただならぬせいでもあるだろう。だが、同時に、作者が経験したことの重みが誠実なまでにひびいているからだ。
この小説を読んでいる間は背筋が伸びる。主人公の生き方のあまりの潔さに打たれる。
主人公は通信社の記者、楠陽。小説のなかではほとんど昭和天皇の崩御の取材をしている。また元号も調べている。
記者仲間や官邸の人びと、学者たちが生き生きと描かれ、昭和が終わる頃の雰囲気が見事な散文に封じ込められている。ほろ苦いロマンスもある。
もっともっと作者の小説を読みたい。いまは議員をしておられるから無理だろうが時間ができたらぜひ書いていただきたい。
山田正紀のデビュー作。言語学・神学にからむSF
山田正紀『神狩り』(KADOKAWA / 角川書店、2002)
山田正紀のデビュー作(1974)。第6回星雲賞日本短編部門を受賞している。
発表後30年を経て続編『神狩り2 リッパー』(2005)が発表されている。
表題通り、神を狩ろうとする無謀な企てを描くSF作品。主人公は機械翻訳を専門とする情報工学者・島津圭助。神戸で発掘された石室に文字らしきものが書かれているとの連絡を受け、調査におもむく。落盤事故が発生し、調査を依頼した作家は死ぬが島津は生き残る。
島津はCIAの及川五朗に拉致され秘密の研究所で石室の文字の解読作業に従事させられる。論理記号が二つしかない、ありえない言語であることを発見する。
研究室を出た島津は、神に恨みをもつ華僑・宗新義にクラブ理亜に連れて行かれる。そこで、神の存在を見ることができる理亜(ゆりあ)と、もと神学者の芳村老人に出会う。
彼らは協力して神を狩ろうとするが、それを妨害する霊感能力者アーサー・ジャクスンや、神自身との戦いが始まる。犠牲者の数が増えてゆく。
物語の発端でアイルランドにいるヴィトゲンシュタインが出てくる。「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」とかつて自著に書いた彼は、その語りえぬことについて語らなければならない時を迎えていた。
この出だしはそれなりに重みをもつ。ところが、細部がいけない。神は細部に宿るというのに。たとえば、彼がいる場所について次のように書かれている。
アイルランド東海岸ギャルウェイ
ここを読んだだけで、アイルランドをよく知る人はがっくりするだろう。東でなく西海岸だし、この地名は英語ならゴールウェーだ。
それが地名ひとつのことならまだしも、言語学や神学に関する記述がほとんど信頼するに足りぬ。なんども途中で読むのをやめようと思った。
バーでの理亜の描写などにそれなりの魅力があるので最後まで読んだが、言語学・神学にからむSF作品としては粗すぎる。一部に高く評価する向きがあるのが私には理解しがたい。佐藤亜紀が「人類の調和や進歩のためならば、何百万人死んでもよい、というような、小松左京的粗野」と評したらしいが同感だ。
それでも、物語には奇妙に忘れがたいところがある。機会があれば続編を読むかもしれないとまで思う。