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秘密を持った子供は時として「無邪気な子供」を演ずる必要がある

森奈津子『語る石』(e-NOVELS, 2017)

 

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 森奈津子の短篇小説「語る石」(e-NOVELS)は幼い子が父の机の上にふしぎな石を見つけるところから始まる。

 その石は子供である麻衣子に様々なことを語り聞かせる。その中で、心に最も強く残ったのは、「人間の肉体と魂の関係についての考察」だった。

「肉体は魂の錘(おもり)なんだ」

 小学校にあがる前の麻衣子には難しい言葉だ。だが、石は「肉体」や「魂」といった言葉を説明して聞かせた。

「魂は空気より軽いもんだから、上へ上へと昇りたがる。その魂をしっかりと大地に押さえておくのが、肉体なんだ」

 石は続ける。

「だから、おまえも油断するなよ。ボーッとしてると、すぐに死んじまうぞ。風船みたいな自分の魂を、しっかりつかまえておけよ。わかったな?」

 肉体は魂の錘——それが真実か法螺かは麻衣子には判断しかねる。ただ、石が語るその話がとても好きだ。

 ある日、石はとんでもないことを麻衣子に語る。そして、ある指令を発する。麻衣子はどうするのか。

「秘密を持った子供は時として『無邪気な子供』を演ずる必要がある」ことを麻衣子は再確認する。

 秀逸な短篇だ。

 

 

 

語る石 (e-NOVELS)

語る石 (e-NOVELS)

 

 

濃密な幻想世界を描く短篇

皆川博子『雪花散らんせ』

 

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著者65歳の時の作品。『あの紫は ― わらべ唄幻想』(1994)に収録。

2017年になって e-NOVELS から発行された。e-NOVELS は1999年に始まった、プロの作家集団によるオンライン販売。最近、Kindle にも入ってきたようだ。1999年当時は株式会社アスキー・株式会社アスキーイーシーと共同でオンライン販売を行っていた。

この2017年刊の作品の奥付には次の説明がある。

e-NOVELS とはプロの作家が、編集者や出版社を介さず自分たちで自由にセレクト、編集した作品を発表する団体です。小説や評論など過去に雑誌掲載されたものから、書籍化された作品、書き下しまで、幅広いジャンルを取り扱っています。

Kindle Singles に似ている。が、大手出版社も含まれる Kindle Singles とは違い、e-NOVELS の方は作家が主体だ。

***

皆川博子は80代で現役の作家である。この65歳の時の作品も、切れば血が出そうな鋭い感性が横溢している。

短篇でこれだけの濃厚な幻想世界を作りだせるのには驚くほかない。

冒頭のわらべ唄が独特のトーンで作品の基調を導きだす。

雪花散らんせ
空に花咲かんせ
薄刃腰にさして
きりりっと
舞わんせ

これは果たしてどういうわらべ唄なのだろうと読者は思う。その意味について何の解説もされぬまま、物語は作家の仕事場から始まる。ふと気づくと、足もとに封書が落ちている。宛先に自分の名があるが、「奇妙なことに、住所の記載もなく、切手も貼ってない」。一体、どうやって届いたのか。

封を切ると四つに折りたたまれた便箋が入っている。新聞に書いたエッセイ「雪花散らんせ」への感想とともに、エッセイで触れた木版画の画家は祖父ではないかと記されている。なつかしいので一度お目にかかりたいという趣旨であった。

「雪花散らんせ」は、版画を目にして以来、しばしば見ている夢に出てくるわらべ唄である。これで冒頭の唄の由来が判明するわけであるが、むしろ謎は深まる。夢の情景は降りしきる葩びらで占められているにもかかわらず、歌は舞う雪をうたう。葩と雪とが同居している。夢ならではの不合理な世界なのか。くっきりしていると同時に歯がゆいほど朧げな夢。

この版画に描かれた満開の桜の木の下の立ち姿が、作品のもう一つの基調となり、短篇が展開する。冒頭の謎が波紋を描きつつ別の謎が輪をなして重なり、現実と夢と唄との境が朧げになってゆく。

その幻想性は短篇であることを忘れるほどに濃密だ。なお、版画に描かれた人物、三代目 澤村田之助は皆川作品に時折でてくる。幕末から明治にかけての実在の歌舞伎役者だ。その生涯を綴る皆川の長編小説『花闇』(1987)もある。

 

 

 

雪花散らんせ (e-NOVELS)

雪花散らんせ (e-NOVELS)

 

 

レ・ファニュの意外な一面を表す表題作

J・S・レ・ファニュ『ドラゴン・ヴォランの部屋』(創元推理文庫、2017)

 

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レ・ファニュ『ドラゴン・ヴォランの部屋』

 

アイルランドの作家シェリダン・レ・ファニュ(1814-73)の日本における作品集の第2弾。第1弾『吸血鬼カーミラ』(平井呈一訳、1970)から47年経っている。

短編4本、中編1本が収められている。この作品集に対する評価は読む人の立場によって変わるだろう。怪奇幻想小説を求めて読むと満足度はおそらく低い。超自然要素を含むポーばりのサスペンス小説をアイルランドイングランドを舞台に展開した文学と考えればおそらく高評価になる。ジェーン・オースティンとの影響の相互関係がある作家という角度で読めば、それなりに興味深い。どの立場から読むにせよ、レ・ファニュの語り口はリーダブルで、親しみやすい。ただ、アイルランドに関心がある人が読むと、アイルランドの物語とは思えない固有名詞の表記で興ざめする点は多々ある。

純然たる小説のおもしろさという観点からいうと、表題作が群を抜いている。ミステリの要素をふくんだ恋愛小説に、生きながらの埋葬という恐怖と、得体の知れないシナ人占いとを加えた、一種独特の味わいがある。200ページ近くあるけれど、フランスを舞台にした波瀾に富んだ展開で飽きさせず、短い章を連ねた読みやすい作品だ。

イングランド北部を舞台にアイルランドの妖精譚のような人さらいの物語を綴る「ローラ・シルヴァー・ベル」もおもしろい。イングランドでもアイルランドの民間伝承と同様の伝承があったのだとすれば、大変興味深い。

 

 

 

ドラゴン・ヴォランの部屋 レ・ファニュ傑作選 (創元推理文庫)

ドラゴン・ヴォランの部屋 レ・ファニュ傑作選 (創元推理文庫)

 

 

平成という元号の知られざる成立史

青山繁晴『平成紀』(幻冬舎、2016)

 

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青山繁晴『平成紀』

 

読み終わった後もその本の世界がしっかりと残る書物がある。

この本はそういう書物だ。

小説だけれど、小説ではない。平成という元号がどうやって決まったかをかぎりなく真相に近くまで描く点ではノンフィクションだ。

もちろん、主人公を含む登場人物の名前は多くがフィクションだ。しかし、肝腎なところは本当のことが書かれていると強く思わせられる。

それは作者の筆力がただならぬせいでもあるだろう。だが、同時に、作者が経験したことの重みが誠実なまでにひびいているからだ。

この小説を読んでいる間は背筋が伸びる。主人公の生き方のあまりの潔さに打たれる。

主人公は通信社の記者、楠陽。小説のなかではほとんど昭和天皇崩御の取材をしている。また元号も調べている。

記者仲間や官邸の人びと、学者たちが生き生きと描かれ、昭和が終わる頃の雰囲気が見事な散文に封じ込められている。ほろ苦いロマンスもある。

もっともっと作者の小説を読みたい。いまは議員をしておられるから無理だろうが時間ができたらぜひ書いていただきたい。

 

 

 

平成紀 (幻冬舎文庫)

平成紀 (幻冬舎文庫)

 

 

山田正紀のデビュー作。言語学・神学にからむSF

山田正紀『神狩り』(KADOKAWA / 角川書店、2002)

 

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山田正紀『神狩り』

 

山田正紀のデビュー作(1974)。第6回星雲賞日本短編部門を受賞している。

発表後30年を経て続編『神狩り2 リッパー』(2005)が発表されている。

表題通り、神を狩ろうとする無謀な企てを描くSF作品。主人公は機械翻訳を専門とする情報工学者・島津圭助。神戸で発掘された石室に文字らしきものが書かれているとの連絡を受け、調査におもむく。落盤事故が発生し、調査を依頼した作家は死ぬが島津は生き残る。

島津はCIAの及川五朗に拉致され秘密の研究所で石室の文字の解読作業に従事させられる。論理記号が二つしかない、ありえない言語であることを発見する。

研究室を出た島津は、神に恨みをもつ華僑・宗新義にクラブ理亜に連れて行かれる。そこで、神の存在を見ることができる理亜(ゆりあ)と、もと神学者の芳村老人に出会う。

彼らは協力して神を狩ろうとするが、それを妨害する霊感能力者アーサー・ジャクスンや、神自身との戦いが始まる。犠牲者の数が増えてゆく。

物語の発端でアイルランドにいるヴィトゲンシュタインが出てくる。「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」とかつて自著に書いた彼は、その語りえぬことについて語らなければならない時を迎えていた。

この出だしはそれなりに重みをもつ。ところが、細部がいけない。神は細部に宿るというのに。たとえば、彼がいる場所について次のように書かれている。

アイルランド東海岸ギャルウェイ


ここを読んだだけで、アイルランドをよく知る人はがっくりするだろう。東でなく西海岸だし、この地名は英語ならゴールウェーだ。

それが地名ひとつのことならまだしも、言語学や神学に関する記述がほとんど信頼するに足りぬ。なんども途中で読むのをやめようと思った。

バーでの理亜の描写などにそれなりの魅力があるので最後まで読んだが、言語学・神学にからむSF作品としては粗すぎる。一部に高く評価する向きがあるのが私には理解しがたい。佐藤亜紀が「人類の調和や進歩のためならば、何百万人死んでもよい、というような、小松左京的粗野」と評したらしいが同感だ。

それでも、物語には奇妙に忘れがたいところがある。機会があれば続編を読むかもしれないとまで思う。

 

 

 

神狩り (ハヤカワ文庫JA)

神狩り (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

孝元の知られざる過去とユウキを結ぶ謎

葉山透『0能者ミナト〈10〉』KADOKAWA、2016

 

「0能者」シリーズ第10巻。今回も長編だ。

主役は高校生時代の荒田孝元(総本山の法力僧)と、現在の赤羽ユウキ(小学生でありながら強い法力の持ち主)。いつもは主人公の九条湊(霊能力ゼロでありながら科学的思考で怪異を退治する零能者)は脇役に徹する。

出てくる怪異(人の世の理から外れたもの、人の力が及ばぬ脅威)は牛頭鬼(ごずき、地獄の獄卒と言われる)、馬頭鬼(めずき、獄卒の番人と呼ばれる牛頭馬頭の片割れ)、神虫(しんちゅう、神の化身、疫鬼をくらう)など。

十七歳の孝元は牛頭鬼にやられそうになったとき、一刀両断のもとに牛頭鬼を退治した赤羽夏蓮に命を救われた。夏蓮は総本山のなかで五指に入る怪異討伐の手練れだった。彼女をそこまで鍛え上げた父親、赤羽義雄も並外れた法力の持ち主だ。

男所帯の総本山の中で女の傑物は異物として疎まれる。若い僧であった孝元は頼まれて家庭教師をするうち、そんな夏蓮に惹かれてゆく。ところが、あるとき、馬頭鬼が武具をもたぬ夏蓮を襲い、全身に大怪我を負わせる。夏蓮親子は総本山から姿を消す。一月ほどして義雄から孝元に手紙が届く。親子が総本山を出たのは夏蓮が妊娠したためであること、普通の男性と恋をして子を授かったことが記されていた。

現在に話がうつり、ユウキが留守番しているところに事件の依頼人がやってくる。四十歳くらいの国崎弦と名乗る男性だった。製薬会社の開発者で精神科の医師。怪異が見えるという心理学的な現象について調べているという。怪異は集合無意識から来る幻覚と決めつける。疑うユウキに、国崎はコップに水を汲んできてくれれば怪異が幻覚症状だと証明するという。懐から怪異という幻覚をつかさどる深層心理に働きかける薬を取りだす。これを飲めば怪異という幻覚症状は抑えられると説明する。ためしに飲んでみたらと言われてユウキは飲む。ユウキの法力に変化が現れるのか。

物語を通じて現在のユウキにつながる孝元の関わりが徐々に明らかになる。孝元とユウキのそれぞれの恋の要素も出てきて、人間ドラマの側面もある。

怪異ははたして幻覚症状なのか。さらに、興味深い問題として真名(まな)のことが出てくる。ユウキというカタカナの名前は真名を隠すためなのか。それは赤羽家の秘法にかかわるのか。

 

 

 

0能者ミナト<10> (メディアワークス文庫)

0能者ミナト<10> (メディアワークス文庫)

 

 

イーグルトンのポストモダニズム論の問題点を抽出する

風呂本武敏『華開く英国モダニズム・ポエトリ』(溪水社、2016)

 

題に「英国」とついているが実際にはアイルランドスコットランドを含む。

それらのモダニズム詩についての評論集(ラーキン、パウンド、イェイツ、エリオット、ロレンス、オーデン、マクダーミッド、ミュアー、ヒーニーらを扱う)。主に2000年代に書かれた評論を集めるが、最終章のみ書き下ろし。

その最終章「補遺 イーグルトンのポストモダニズム論——テリー・イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』によせて」について。

ここに著者のポストモダニズム観が要約的に示されており、それが他のモダニズムの章の理解に役立つ。

その要約は、テリー・イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』(森田 典正訳、大月書店、1998)'The Illusions of Postmodernism' (1996) からの問題点の抽出という形をとる。

同書はイーグルトンの著書の中では、有名な 'Literary Theory: An Introduction' (1983) と 'After Theory' (2003) の間に位置する。

題からもうかがえる通り、ポストモダニズムの批判書だ。

ざっくりいえば、ポストモダニズムは〈自分に甘い〉ということだ。ポストモダニズムは批判的自己分析ができていないということ。例えば次の「普遍」に関する指摘。

ポストモダニズムは社会現象に対して、例えば、雑種は純血より、多様は単一より、差異は同一よりも好ましい、というようなことをまるで普遍的倫理であるかのように主張している。しかし、普遍性こそ、ポストモダニズムが非難する啓蒙主義の時代から受け継がれた負の遺産ではないか。(46頁)

ポストモダニズムが独善的なのは、普遍に反対する立場を普遍化していることであり、共有された人間性という概念を、全く無意味なものと結論つけていることである。(73頁)

この73頁は重要な文なので、念のため、原文を引いておく。「全く無意味なものと……」以下は原文を読んだ方がよい。訳者は 'never' の意味を理解していないように見える。人間の歴史に思いを馳せながらイーグルトンはこの語を用いている。

It is just that it is dogmatic of postmodernism to universalize its case against universals and conclude that concepts of a shared human nature are never important, not even, say, when it comes to the practice of torture. (p. 49)

さらに、ポストモダニズムは出自がアメリカであることを自ら忘れている点がある。それを指摘する箇所。

アメリカのポストモダニズム反自民族中心主義に拘泥するあまり、自民族中心主義的色彩をおびてきている。こうした現象はそれほど珍しいものではなくて、アメリカはしばしば独自の政治的問題を、世界共通の問題として、全世界に認識させようとする。(166頁)

ポストモダニズムが一般的人間性の理念を疑問視したのは、マイノリティを強く意識した結果であった。しかし、実際に人種差別の被害にあっているマイノリティを救うために、なぜ一般的人間性の否定を言う必要があるのか、その疑問は消えることはない。(167-8頁)

このあたりの議論はアメリカ研究をしているひとにはよく知られているかもしれない。なお、「反自民族中心主義」と訳された箇所は原文で 'anti-ethnocentrism' となっている。また、「一般的人間性」の元の表現は 'general humanity' だ。73頁の「共有された人間性」(原文は 'a shared human nature')に近い。

つまり、ポストモダニズムに欠けているのは、批判的精神の原点である〈己自身を知る〉ということなのだ。

私はこうしたイーグルトンの議論を読みながら、カトリシズムの神学についての深い理解の点でG・K・チェスタトンを思い浮かべ、また自民族中心主義の陥穽からの脱出経路としてボブ・ディランの詩的洞察の鋭さを思った。

批評理論を批評理論としてだけ読むと、わかりにくいことが多いが、普遍とか汝自身を知れのような問題になると、神学や詩学の裏付けがあるほうがわかりやすい。カトリシズムとは普遍の謂いだし、自分の表現について詩ほど内省的なものはない。そもそも、本書は詩についての本だ。
 
 

 

華開く英国モダニズム・ポエトリ

華開く英国モダニズム・ポエトリ