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イーグルトンのポストモダニズム論の問題点を抽出する

風呂本武敏『華開く英国モダニズム・ポエトリ』(溪水社、2016)

 

題に「英国」とついているが実際にはアイルランドスコットランドを含む。

それらのモダニズム詩についての評論集(ラーキン、パウンド、イェイツ、エリオット、ロレンス、オーデン、マクダーミッド、ミュアー、ヒーニーらを扱う)。主に2000年代に書かれた評論を集めるが、最終章のみ書き下ろし。

その最終章「補遺 イーグルトンのポストモダニズム論——テリー・イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』によせて」について。

ここに著者のポストモダニズム観が要約的に示されており、それが他のモダニズムの章の理解に役立つ。

その要約は、テリー・イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』(森田 典正訳、大月書店、1998)'The Illusions of Postmodernism' (1996) からの問題点の抽出という形をとる。

同書はイーグルトンの著書の中では、有名な 'Literary Theory: An Introduction' (1983) と 'After Theory' (2003) の間に位置する。

題からもうかがえる通り、ポストモダニズムの批判書だ。

ざっくりいえば、ポストモダニズムは〈自分に甘い〉ということだ。ポストモダニズムは批判的自己分析ができていないということ。例えば次の「普遍」に関する指摘。

ポストモダニズムは社会現象に対して、例えば、雑種は純血より、多様は単一より、差異は同一よりも好ましい、というようなことをまるで普遍的倫理であるかのように主張している。しかし、普遍性こそ、ポストモダニズムが非難する啓蒙主義の時代から受け継がれた負の遺産ではないか。(46頁)

ポストモダニズムが独善的なのは、普遍に反対する立場を普遍化していることであり、共有された人間性という概念を、全く無意味なものと結論つけていることである。(73頁)

この73頁は重要な文なので、念のため、原文を引いておく。「全く無意味なものと……」以下は原文を読んだ方がよい。訳者は 'never' の意味を理解していないように見える。人間の歴史に思いを馳せながらイーグルトンはこの語を用いている。

It is just that it is dogmatic of postmodernism to universalize its case against universals and conclude that concepts of a shared human nature are never important, not even, say, when it comes to the practice of torture. (p. 49)

さらに、ポストモダニズムは出自がアメリカであることを自ら忘れている点がある。それを指摘する箇所。

アメリカのポストモダニズム反自民族中心主義に拘泥するあまり、自民族中心主義的色彩をおびてきている。こうした現象はそれほど珍しいものではなくて、アメリカはしばしば独自の政治的問題を、世界共通の問題として、全世界に認識させようとする。(166頁)

ポストモダニズムが一般的人間性の理念を疑問視したのは、マイノリティを強く意識した結果であった。しかし、実際に人種差別の被害にあっているマイノリティを救うために、なぜ一般的人間性の否定を言う必要があるのか、その疑問は消えることはない。(167-8頁)

このあたりの議論はアメリカ研究をしているひとにはよく知られているかもしれない。なお、「反自民族中心主義」と訳された箇所は原文で 'anti-ethnocentrism' となっている。また、「一般的人間性」の元の表現は 'general humanity' だ。73頁の「共有された人間性」(原文は 'a shared human nature')に近い。

つまり、ポストモダニズムに欠けているのは、批判的精神の原点である〈己自身を知る〉ということなのだ。

私はこうしたイーグルトンの議論を読みながら、カトリシズムの神学についての深い理解の点でG・K・チェスタトンを思い浮かべ、また自民族中心主義の陥穽からの脱出経路としてボブ・ディランの詩的洞察の鋭さを思った。

批評理論を批評理論としてだけ読むと、わかりにくいことが多いが、普遍とか汝自身を知れのような問題になると、神学や詩学の裏付けがあるほうがわかりやすい。カトリシズムとは普遍の謂いだし、自分の表現について詩ほど内省的なものはない。そもそも、本書は詩についての本だ。
 
 

 

華開く英国モダニズム・ポエトリ

華開く英国モダニズム・ポエトリ

 

 

Qシリーズの完結編で莉子はクリティカル・シンキングに向かう松岡圭祐『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』

松岡圭祐万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』講談社、2016)

 

万能鑑定士の凜田莉子を主人公とするQシリーズの完結編。ストーリーとしては『探偵の鑑定 I・II』から続く。

本書は関連シリーズのオールスター・キャストの観を呈する。これまでQシリーズ全20巻や『探偵の鑑定 I・II』(凜田莉子と『探偵の探偵』の紗崎玲奈が出会う)や姉妹編シリーズ『特等添乗員αの難事件』(主人公の浅倉絢奈は先に『万能鑑定士Qの推理劇 I』で凜田莉子と出会っている)を読んできたひとには感慨深いだろう。

ムンクの絵画「叫び」の盗難事件の解決に取組むなか、凜田莉子は鑑定家としての自分の役割について考える。鑑定家はコピアのような史上最大の贋作家に勝てないのか。コピアのつくる偽物は科学を駆使した鑑定をもってしても本物と区別がつかない。彼が偽物を作っていることがわかっていても、鑑定上は完全な複製となるため、罪に問われない。偽物を作っているという証拠が見つからないからだ。

贋作家を廃業した雨森華蓮からは「コピアと関わるな」という忠告を受ける。さらに、「プロポーズを受けても、はいとか、いいえで答えるのは間違い。好きか嫌いで答えて」という謎の忠告も受ける。雨森は莉子の唯一の弱点は男性心理に疎いところだと示唆する。これは莉子と微妙な距離にある友人、小笠原悠斗と関係があるのか。

瀬戸内陸(莉子にロジカル・シンキングを教えたリサイクルショップ店長)は莉子に欠けているのはロジカル・シンキングとラテラル・シンキング(浅倉絢奈から影響された)のあいだを埋めるクリティカル・シンキングだという。「あらゆる物事の問題を特定して、正確に分析することにより、最適解にたどり着く思考法」で、この三つの思考が揃ってはじめて本当の推理が可能になると指摘する。クリティカル・シンキングの極意は自身の論理構成や要旨について内省するところだという。莉子は水鏡瑞季(『水鏡推理』シリーズの主人公)にクリティカル・シンキングの教えを請う。

このように周りからさまざまの課題も受けつつ、莉子は最強のライバル、コピアとの対決を迎える。お互いの人生を集約したような戦いが始まる。はたしてどのような結末が待っているのか。シリーズ最長の416ページあり、最終巻にふさわしい各キャラクターの活躍がたっぷり楽しめる。

 

 

 

 

「太陽の塔」を鑑定する

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿XII』角川書店、2011

 

「万能鑑定士」シリーズの第12作(2011)。事件簿の最終巻。大阪が舞台。

一つの区切りなので整理しておくと、本書の最後に「万能鑑定士Qの推理劇で、凛田莉子とまたお会いしましょう!」と書かれている。その『万能鑑定士Qの推理劇』は全4巻が刊行された(2011-13)。ほかに『万能鑑定士Qの短編集』全2巻(2012)。さらに、独立した題の『万能鑑定士Qの探偵譚』(2013)、『万能鑑定士Qの謎解き』(2014)、Qシリーズ完結編の『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』(2016)がある。

関連するシリーズに、万能鑑定士凛田莉子(ロジカル・シンキングを駆使)の友人の旅行会社添乗員、浅倉絢奈(ラテラル・シンキングを駆使)が主人公の『特等添乗員αの難事件』全5巻(2012-14)があり、姉妹編といえる。なお、本書『万能鑑定士Qの事件簿 XII』に出てくる科学研究の不正のテーマは、『水鏡推理』シリーズ(5巻まで刊行、2015-16)に引継がれる。

別のシリーズ『探偵の探偵』全4巻とクロスオーバーした『探偵の鑑定 I・II』からストーリー上続くのがQシリーズ最終巻の『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』。

本書で莉子が鑑定を依頼されるのは事件簿で最大の規模の「太陽の塔」。犯罪者側の勢力も過去最大の規模。それだけに全体の6割くらいまで進んでも、謎が解けるきざしが一向に見えず、重苦しい雰囲気がただよう。

発端は太陽の塔がある万博公園の近くに暮らす蓬莱浩志が、塔の方を眺めているときに妻の悲鳴を公園の方から聞いたことだ。警官に似た制服を着た巨漢が妻を連れ去ろうとしている。浩志は急いで通用口から公園に入る。さっきの制服はそこにいた警備員のものと同一だった。「なかに妻が」と訴えても開園前だと言われる。

浩志は妻を見かけた方角へ向けて駈けだす。妻が連れていかれた太陽の塔の方を目指す。妻が見当たらないので塔に入った浩志は頭上から悲鳴を聞く。内部の「生命の樹」の向かいの壁沿いにエスカレータがあるが、その四段目の踊り場に妻の姿を認める。浩志はエスカレータを駆けのぼるが妻はどこにもいない。結局、発見できなかった浩志は警察に捜査を頼むが、それでも見つからない。警察は夫婦間の揉めごととして処理しようとし、取合ってくれない。

困り果てた浩志は東京へ行き莉子に協力を依頼する。自分は人探しが専門でなく鑑定家なのでと莉子が断ると、では太陽の塔を鑑定してもらいたいと浩志は言う。応じた莉子が大阪へ行って調べるうちに奇怪なことが起こる。正体不明の鑑定依頼が莉子に次々とやってくる。まるで鑑定能力のテストのような変わった品ばかり。そのうちに、報酬として一千万円を支払うので引受けてもらいたいという依頼が届く。

過去にない規模の鑑定品にくわえ、過去最大規模の犯罪者集団の影を莉子は感じるが、手がかりが一切ない。莉子はこの謎をどうやって解くのか。

松岡作品の特徴である、ページが進むごとに何が起こるかわからない、サスペンス満載の謎が次々に出てくるさまは圧巻。事件簿の最終巻にふさわしい。

 

 

 

 

同じ思考法を使う兄弟子と対決する

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿)XI』角川書店、2011

 

「万能鑑定士」シリーズの第11作。京都が舞台。

有名な神社仏閣が多い京都で単立の貧乏寺を再興する青年、水無施瞬は東京でイタリアン・レストランを成功させた経験があるが、僧侶としての経験は全くない。ところが、住職の父に寺を継ぐと申し出る。

いざ始めてみると、寺は大評判になり、マスコミの注目も集め、観光バスが連なるほどになる。

いったいこの青年はどうやって飲食店も寺も成功に導いたのか。

貧困という逆境を商売人の脳を活性化させる最良の刺激と捉える、瀬戸内店長の教えを忠実に活かす。脈のありそうな方策をひとつに絞る有機的自問自答。出た答えを別角度から検閲する無機的検証。この二段階の複眼的かつ論理的な分析が成功の秘密だった。

この論理的思考は主人公の凛田莉子と全く同じ。同じ瀬戸内店長から教えを受けた兄弟子が水無施だったのだ。

その水無施が仕掛けたトリックを見破ろうとする莉子にとっては、同じ思考法を使う相手だけに、強敵である。莉子はいかにしてその謎を解くのか。

物語にはいつものとおり役に立つ知識が満載だが、特にボロ・アパート再生のために駆使されるヤフオク関連の知識がおもしろい。鑑定家である莉子は出品の写真を見ただけで適否をすばやく判断する。

もうひとつ、物語の底流として、仏とはなにか、という問いも含まれており、寺の経営と仏教という根本を考えさせるきっかけにもなる。

 

 

 

 

有機的自問自答と無機的検証という二段階の論理による問題解決法を駆使して真相に近づく

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿X』角川書店、2011

 

「万能鑑定士」凛田莉子を主人公とするシリーズの第10作。

時系列としてモナ・リザの謎を扱う『万能鑑定士Qの事件簿 IX』に続くが、物語の中心は『万能鑑定士Qの事件簿 II』の続篇。20歳の莉子がからむハイパー・インフレ事件の頃を回想する形をとる。読者としては少なくとも『万能鑑定士Qの事件簿 I』『万能鑑定士Qの事件簿 II』の二作の既読者を想定している。この二作はふたつでひとつの話になっている。

美容室チェーンの社印の鑑定を依頼された莉子が思わぬ事件に巻込まれる。その社印は美容室の経営権を奪う不当な契約書に押されていた。社長はまったく押した覚えがない。何者かが偽造したに違いないと社長は確信し裁判で争うが、精密な鑑定によって契約書の社印は本物と断定され、最高裁でも同じ結論が出る。

この社印の問題に取組むうちに莉子は恩人の瀬戸内から習った有機的自問自答と無機的検証という二段階の論理による問題解決法を駆使して真相に近づいてゆく。

この問題解決法は問題の要点をつかみ図式化する中で、問題のすばやい把握をおこなう。実際にさまざまなことに応用が効きそうな思考法で、これを読むだけでも本作の価値がある。

もうひとつ本作で得られるおもしろい「実用的」知識に、外見上区別がつきにくい、ヤクザとマル暴の警官との見分け方がある。莉子が社印問題に迫る中で豪華客船に乗込むのだが、そこにヤクザと警察がそれぞれ百人以上乗船しており、その二つの人間を見分けることが死活問題となるのだ。

実際に役立てられるような機会は訪れない方がよいが、これも、これだけで読む価値があると思えた知識だった。

ミステリとしてはいつもながら秀逸なできだ。

 

 

 

 

ふたつの「核融合」とは

松岡圭祐水鏡推理5 ニュークリアフュージョン講談社、2016

 

科学の不正研究をテーマとする「水鏡推理」シリーズの第5作。今回のテーマは「核融合」。

日本語の「核融合」という言葉には二つの意味があることを最後まで読んだひとは実感することだろう。

ふつう「核融合」を英訳すると nuclear fusion になる。本書の題名を見たひとはその意味だと思ってしまう。それで間違っているわけではない。

もうひとつの「核融合」は英訳すると karyogamy という。こちらは細胞核の結合のことだ。特に、精子卵子の中に入り両者の核が融合することをいう。

英語だとまったく違う言葉なのに日本語では同じ言葉。それは偶然なのか。偶然でないのか。

英語の nuclear には原子核の意味と細胞核の意味がある。日本語の「核融合」が両方の意味があることにふしぎはない。

著者の松岡圭佑はこうしたことを深く考えたのかもしれない。しかし、ふつうのひとは両者を関連させる物語など思いつかないだろう。(ちなみに、この種の多義語は著者得意の技法だ。例えば、『万能鑑定士Qの事件簿 X』に出る「ユニクロ」も二つの意味がある。ふつうのひとが一方の意味しか思い浮かべない語ほど効果的だ。)

本書はそういう意味でアクロバットのような要素がないこともないが、読み終わると両者は読者のなかで不思議な結びつきかたをしている。

いつにもましてスリルの要素が多いが、特に主人公の水鏡瑞季に、シリーズでも最大の危機が迫る。「不妊バクテリア」という妄想的な危険を瑞季に訴える謎の女。その「不妊バクテリア」を瑞季は勤務先の文科省のスーパーコンピュータの分析対象に入れてもらう。その部署での直属の上司はその直前に「核融合」を分析対象にする。これらのことは偶然なのか。

核融合」は人類の夢のエネルギーといわれて久しいがなかなか実現しない。日本は世界の中でも「少子化」に悩んでいるが解決策がなかなか見えない。

日本政府の予算配分は正しく行われているのか。予算獲得のために研究の不正が行われていないのか。

こうした課題について考えるきっかけを与えてくれる作品だ。

 

 

 

 

詩的な神学的探偵小説

G・K・チェスタトン『詩人と狂人たち (ガブリエル・ゲイルの生涯の逸話)』【新訳版】 (創元推理文庫、2016)

 

 控えめに言っても他に類を見ない作品だ。詩人にして画家の主人公が狂人たちが引起こす事件を解決するか未然に防止する話が8篇収められている。

 なぜ主人公が狂人たちの行動がわかるかというと、主人公自身が狂気と闘っているからだ。狂気とは何か。正気とは何か。理性とはなにか。神とはなにか。これらの形而上的な問題について神学的あるいは哲学的思索が展開され、画家の芸術的想像力がはばたき、詩人の言葉で表現される。その発言の深遠さのゆえに、何度でも読みかえしたくなる。

 だが一般にはミステリに分類される。そしてミステリとしても高い評価がされる。日本においても同様だ。英語圏では神学的探偵小説などとも呼ばれる。

 2012年に週刊文春が主催した「東西ミステリーベスト100」のことを解説者の鳥飼否宇(『死と砂時計』が2016年の本格ミステリ大賞を受賞した作家)がふれている。そのランキングで本作が86位に輝く。投票者387人中たった6人しか投票していないにもかかわらず(鳥飼氏はもちろん投票した)。

 ランキングの投票詳細をみると、本作を1位に推したひとが2人、2位に推したひとが2人いる。それで得点が高いのだ。つまり、鳥飼氏がいう通り「好きな人にとってはカルト的な人気を誇る作品」といえる。

 どこにその秘密があるのか。神学・哲学と芸術と詩とが狂気と正気をめぐって見事にからむところに魅力の大きな要因がある。

 多くの論者が本作の思想面と芸術面を分析しているが詩的分析が殆どない。だが、本作の文体の魅力の大部分はおそらくその詩的なところなのだ。

 かつて江戸川乱歩が「深夜、純粋な気持ちになって、探偵小説史上最も優れた作家は誰かと考えて見ると、私にはポーとチェスタートンの姿が浮かんでくる」と書いた(『海外探偵小説作家と作品』早川書房、1957)。ポーもチェスタトンも詩人だ。

 ここでは主人公の名前と主人公を描写する文章を一つだけ取上げる。

 名前が Gabriel Gale という。この名前がすでに詩的だ。/g/ の頭韻をなし、さらに、/ei/ の母音韻もなす。母音韻をきちんと表現するために「ゲイブリエル・ゲイル」と書かねばならない。

 この詩人のものの考え方を叙述する文章は次のようだ(第2話「黄色い鳥」)。

Hence it was that he would sometimes follow one train of thought for hours, as steadily as a bird winging its way homewards. But it might start anywhere; and hence, in his actual movements, he looked more like a floating tuft of thistledown caught upon any thorn.

 彼が思索(thought)を追い続けるようすが巣へと飛ぶ(winging its way の /w/ の頭韻)鳥に喩えられる。さらにその浮遊と着陸のしかたがイバラにとまったアザミの冠毛(a floating tuft of thistledown caught upon any thorn の /th/ の頭韻)になぞらえられる。この/th/ の頭韻は前文の中心テーマ思索(thought)の残響を有し、詩人の思索の飛ぶが如き性格をよく表す。

 翻訳について。「フィニアス・ゲイル」は「フィニアス・ソールト」が正しい(238頁)。読んでいるひとは誰でも気づくけれど。