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「太陽の塔」を鑑定する

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿XII』角川書店、2011

 

「万能鑑定士」シリーズの第12作(2011)。事件簿の最終巻。大阪が舞台。

一つの区切りなので整理しておくと、本書の最後に「万能鑑定士Qの推理劇で、凛田莉子とまたお会いしましょう!」と書かれている。その『万能鑑定士Qの推理劇』は全4巻が刊行された(2011-13)。ほかに『万能鑑定士Qの短編集』全2巻(2012)。さらに、独立した題の『万能鑑定士Qの探偵譚』(2013)、『万能鑑定士Qの謎解き』(2014)、Qシリーズ完結編の『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』(2016)がある。

関連するシリーズに、万能鑑定士凛田莉子(ロジカル・シンキングを駆使)の友人の旅行会社添乗員、浅倉絢奈(ラテラル・シンキングを駆使)が主人公の『特等添乗員αの難事件』全5巻(2012-14)があり、姉妹編といえる。なお、本書『万能鑑定士Qの事件簿 XII』に出てくる科学研究の不正のテーマは、『水鏡推理』シリーズ(5巻まで刊行、2015-16)に引継がれる。

別のシリーズ『探偵の探偵』全4巻とクロスオーバーした『探偵の鑑定 I・II』からストーリー上続くのがQシリーズ最終巻の『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』。

本書で莉子が鑑定を依頼されるのは事件簿で最大の規模の「太陽の塔」。犯罪者側の勢力も過去最大の規模。それだけに全体の6割くらいまで進んでも、謎が解けるきざしが一向に見えず、重苦しい雰囲気がただよう。

発端は太陽の塔がある万博公園の近くに暮らす蓬莱浩志が、塔の方を眺めているときに妻の悲鳴を公園の方から聞いたことだ。警官に似た制服を着た巨漢が妻を連れ去ろうとしている。浩志は急いで通用口から公園に入る。さっきの制服はそこにいた警備員のものと同一だった。「なかに妻が」と訴えても開園前だと言われる。

浩志は妻を見かけた方角へ向けて駈けだす。妻が連れていかれた太陽の塔の方を目指す。妻が見当たらないので塔に入った浩志は頭上から悲鳴を聞く。内部の「生命の樹」の向かいの壁沿いにエスカレータがあるが、その四段目の踊り場に妻の姿を認める。浩志はエスカレータを駆けのぼるが妻はどこにもいない。結局、発見できなかった浩志は警察に捜査を頼むが、それでも見つからない。警察は夫婦間の揉めごととして処理しようとし、取合ってくれない。

困り果てた浩志は東京へ行き莉子に協力を依頼する。自分は人探しが専門でなく鑑定家なのでと莉子が断ると、では太陽の塔を鑑定してもらいたいと浩志は言う。応じた莉子が大阪へ行って調べるうちに奇怪なことが起こる。正体不明の鑑定依頼が莉子に次々とやってくる。まるで鑑定能力のテストのような変わった品ばかり。そのうちに、報酬として一千万円を支払うので引受けてもらいたいという依頼が届く。

過去にない規模の鑑定品にくわえ、過去最大規模の犯罪者集団の影を莉子は感じるが、手がかりが一切ない。莉子はこの謎をどうやって解くのか。

松岡作品の特徴である、ページが進むごとに何が起こるかわからない、サスペンス満載の謎が次々に出てくるさまは圧巻。事件簿の最終巻にふさわしい。

 

 

 

 

同じ思考法を使う兄弟子と対決する

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿)XI』角川書店、2011

 

「万能鑑定士」シリーズの第11作。京都が舞台。

有名な神社仏閣が多い京都で単立の貧乏寺を再興する青年、水無施瞬は東京でイタリアン・レストランを成功させた経験があるが、僧侶としての経験は全くない。ところが、住職の父に寺を継ぐと申し出る。

いざ始めてみると、寺は大評判になり、マスコミの注目も集め、観光バスが連なるほどになる。

いったいこの青年はどうやって飲食店も寺も成功に導いたのか。

貧困という逆境を商売人の脳を活性化させる最良の刺激と捉える、瀬戸内店長の教えを忠実に活かす。脈のありそうな方策をひとつに絞る有機的自問自答。出た答えを別角度から検閲する無機的検証。この二段階の複眼的かつ論理的な分析が成功の秘密だった。

この論理的思考は主人公の凛田莉子と全く同じ。同じ瀬戸内店長から教えを受けた兄弟子が水無施だったのだ。

その水無施が仕掛けたトリックを見破ろうとする莉子にとっては、同じ思考法を使う相手だけに、強敵である。莉子はいかにしてその謎を解くのか。

物語にはいつものとおり役に立つ知識が満載だが、特にボロ・アパート再生のために駆使されるヤフオク関連の知識がおもしろい。鑑定家である莉子は出品の写真を見ただけで適否をすばやく判断する。

もうひとつ、物語の底流として、仏とはなにか、という問いも含まれており、寺の経営と仏教という根本を考えさせるきっかけにもなる。

 

 

 

 

有機的自問自答と無機的検証という二段階の論理による問題解決法を駆使して真相に近づく

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿X』角川書店、2011

 

「万能鑑定士」凛田莉子を主人公とするシリーズの第10作。

時系列としてモナ・リザの謎を扱う『万能鑑定士Qの事件簿 IX』に続くが、物語の中心は『万能鑑定士Qの事件簿 II』の続篇。20歳の莉子がからむハイパー・インフレ事件の頃を回想する形をとる。読者としては少なくとも『万能鑑定士Qの事件簿 I』『万能鑑定士Qの事件簿 II』の二作の既読者を想定している。この二作はふたつでひとつの話になっている。

美容室チェーンの社印の鑑定を依頼された莉子が思わぬ事件に巻込まれる。その社印は美容室の経営権を奪う不当な契約書に押されていた。社長はまったく押した覚えがない。何者かが偽造したに違いないと社長は確信し裁判で争うが、精密な鑑定によって契約書の社印は本物と断定され、最高裁でも同じ結論が出る。

この社印の問題に取組むうちに莉子は恩人の瀬戸内から習った有機的自問自答と無機的検証という二段階の論理による問題解決法を駆使して真相に近づいてゆく。

この問題解決法は問題の要点をつかみ図式化する中で、問題のすばやい把握をおこなう。実際にさまざまなことに応用が効きそうな思考法で、これを読むだけでも本作の価値がある。

もうひとつ本作で得られるおもしろい「実用的」知識に、外見上区別がつきにくい、ヤクザとマル暴の警官との見分け方がある。莉子が社印問題に迫る中で豪華客船に乗込むのだが、そこにヤクザと警察がそれぞれ百人以上乗船しており、その二つの人間を見分けることが死活問題となるのだ。

実際に役立てられるような機会は訪れない方がよいが、これも、これだけで読む価値があると思えた知識だった。

ミステリとしてはいつもながら秀逸なできだ。

 

 

 

 

ふたつの「核融合」とは

松岡圭祐水鏡推理5 ニュークリアフュージョン講談社、2016

 

科学の不正研究をテーマとする「水鏡推理」シリーズの第5作。今回のテーマは「核融合」。

日本語の「核融合」という言葉には二つの意味があることを最後まで読んだひとは実感することだろう。

ふつう「核融合」を英訳すると nuclear fusion になる。本書の題名を見たひとはその意味だと思ってしまう。それで間違っているわけではない。

もうひとつの「核融合」は英訳すると karyogamy という。こちらは細胞核の結合のことだ。特に、精子卵子の中に入り両者の核が融合することをいう。

英語だとまったく違う言葉なのに日本語では同じ言葉。それは偶然なのか。偶然でないのか。

英語の nuclear には原子核の意味と細胞核の意味がある。日本語の「核融合」が両方の意味があることにふしぎはない。

著者の松岡圭佑はこうしたことを深く考えたのかもしれない。しかし、ふつうのひとは両者を関連させる物語など思いつかないだろう。(ちなみに、この種の多義語は著者得意の技法だ。例えば、『万能鑑定士Qの事件簿 X』に出る「ユニクロ」も二つの意味がある。ふつうのひとが一方の意味しか思い浮かべない語ほど効果的だ。)

本書はそういう意味でアクロバットのような要素がないこともないが、読み終わると両者は読者のなかで不思議な結びつきかたをしている。

いつにもましてスリルの要素が多いが、特に主人公の水鏡瑞季に、シリーズでも最大の危機が迫る。「不妊バクテリア」という妄想的な危険を瑞季に訴える謎の女。その「不妊バクテリア」を瑞季は勤務先の文科省のスーパーコンピュータの分析対象に入れてもらう。その部署での直属の上司はその直前に「核融合」を分析対象にする。これらのことは偶然なのか。

核融合」は人類の夢のエネルギーといわれて久しいがなかなか実現しない。日本は世界の中でも「少子化」に悩んでいるが解決策がなかなか見えない。

日本政府の予算配分は正しく行われているのか。予算獲得のために研究の不正が行われていないのか。

こうした課題について考えるきっかけを与えてくれる作品だ。

 

 

 

 

詩的な神学的探偵小説

G・K・チェスタトン『詩人と狂人たち (ガブリエル・ゲイルの生涯の逸話)』【新訳版】 (創元推理文庫、2016)

 

 控えめに言っても他に類を見ない作品だ。詩人にして画家の主人公が狂人たちが引起こす事件を解決するか未然に防止する話が8篇収められている。

 なぜ主人公が狂人たちの行動がわかるかというと、主人公自身が狂気と闘っているからだ。狂気とは何か。正気とは何か。理性とはなにか。神とはなにか。これらの形而上的な問題について神学的あるいは哲学的思索が展開され、画家の芸術的想像力がはばたき、詩人の言葉で表現される。その発言の深遠さのゆえに、何度でも読みかえしたくなる。

 だが一般にはミステリに分類される。そしてミステリとしても高い評価がされる。日本においても同様だ。英語圏では神学的探偵小説などとも呼ばれる。

 2012年に週刊文春が主催した「東西ミステリーベスト100」のことを解説者の鳥飼否宇(『死と砂時計』が2016年の本格ミステリ大賞を受賞した作家)がふれている。そのランキングで本作が86位に輝く。投票者387人中たった6人しか投票していないにもかかわらず(鳥飼氏はもちろん投票した)。

 ランキングの投票詳細をみると、本作を1位に推したひとが2人、2位に推したひとが2人いる。それで得点が高いのだ。つまり、鳥飼氏がいう通り「好きな人にとってはカルト的な人気を誇る作品」といえる。

 どこにその秘密があるのか。神学・哲学と芸術と詩とが狂気と正気をめぐって見事にからむところに魅力の大きな要因がある。

 多くの論者が本作の思想面と芸術面を分析しているが詩的分析が殆どない。だが、本作の文体の魅力の大部分はおそらくその詩的なところなのだ。

 かつて江戸川乱歩が「深夜、純粋な気持ちになって、探偵小説史上最も優れた作家は誰かと考えて見ると、私にはポーとチェスタートンの姿が浮かんでくる」と書いた(『海外探偵小説作家と作品』早川書房、1957)。ポーもチェスタトンも詩人だ。

 ここでは主人公の名前と主人公を描写する文章を一つだけ取上げる。

 名前が Gabriel Gale という。この名前がすでに詩的だ。/g/ の頭韻をなし、さらに、/ei/ の母音韻もなす。母音韻をきちんと表現するために「ゲイブリエル・ゲイル」と書かねばならない。

 この詩人のものの考え方を叙述する文章は次のようだ(第2話「黄色い鳥」)。

Hence it was that he would sometimes follow one train of thought for hours, as steadily as a bird winging its way homewards. But it might start anywhere; and hence, in his actual movements, he looked more like a floating tuft of thistledown caught upon any thorn.

 彼が思索(thought)を追い続けるようすが巣へと飛ぶ(winging its way の /w/ の頭韻)鳥に喩えられる。さらにその浮遊と着陸のしかたがイバラにとまったアザミの冠毛(a floating tuft of thistledown caught upon any thorn の /th/ の頭韻)になぞらえられる。この/th/ の頭韻は前文の中心テーマ思索(thought)の残響を有し、詩人の思索の飛ぶが如き性格をよく表す。

 翻訳について。「フィニアス・ゲイル」は「フィニアス・ソールト」が正しい(238頁)。読んでいるひとは誰でも気づくけれど。

 

 

 

 

「モナ・リザ」の鑑定に必要なものは

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿IX』角川書店、2011

 

モナ・リザ」の鑑定をめぐるミステリ。

主人公の鑑定士、凜田莉子にルーヴル美術館から「モナ・リザ」の真贋を鑑定する学芸員の登用試験を受けるよう誘いがある。日本での「モナ・リザ」展において万全を期すためのスタッフだ。万が一、「モナ・リザ」がすり替えられた際に真贋を鑑定するためだ。コンピュータ上では見分けがつかない精巧な贋作と本物の違いを見分ける直感を備えた人が求められる。

これには前日譚がある。シリーズ第5作『万能鑑定士の事件簿 V』において、莉子はルーヴルで「モナ・リザ」を見ている。そのとき、「これって……本物かなぁ?」とつぶやいているのだ。

このエピソードが本作の下敷きになっている。

莉子は正式のスタッフとなるための集中講義を日本で受け、無事終了する。

ところが、日常業務に戻った莉子に異変が起きる。今までの鑑定眼がすっかり失われているのだ。これはどうしたことか。すっかり自信を失った莉子はルーヴルのスタッフを辞退し、鑑定業も廃業して、故郷の波照間島に帰る。

莉子に起きるこの謎の異変が、本作の「モナ・リザ」鑑定と深く関係する。莉子の様子が気になった記者の小笠原は波照間島に向かう。

シリーズ中でも屈指の面白さ。

 

 

 

 

「詩人ボブ・ディラン」特集号

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2016年 10/25 号 [ボブ・ディランの真価]

 

「詩人ボブ・ディラン」特集号(2016年10月18日発売)。ディランのノーベル文学賞受賞が発表されたのが2016年10月13日。1週間足らずでまとめたにしては充実した内容だ。買う価値はある。

特集が始まる前のU.S.Affairs/PERISCOPEのページに、特集とは反対の方向の文章がある(16頁)。ニューズウィーク独自の記事といえるのはワイスの記事と2004年のインタビュー再録を除けばこれだけなので、かえって興味深い。

スティーブン・メトカフ(批評家)「ボブ・ディランの歌詞はノーベル賞に値せず」('He shouldn't have gotten the Nobel')

ディランの世界に対する貢献の例としてメトカフが挙げるのは次の例だ。

ジョン・レノンはディランに会うまで、ポップ音楽で「ラブ・ミー・ドゥ」以上のことは表現できないと考えていた。当時、レノンの頭の中は階級への怒りや壮大なアイデアで煮えたぎっていた。彼は自分の中で起きているカオスを芸術に昇華させるため、ディランにあう必要があったのだ。〉

レノンとディランの関係は確かに重要だ。しかし、メトカフの次の指摘はどうだろう。

〈文学とは静かに自分に向けて読むものだ。静寂と孤独は読書と不可分の関係にある。読書こそ文学に向かう唯一の道である。
 文学が静かで孤独な活動である、という考え方が生まれたのは、ルネサンス期に活版印刷術が発明された後のこと。静かな読書は人と人が交錯する場面をつくり出す。そのページに書かれた誰かの声が、私の声となって私の頭の中で鳴り響く。〉

文学をこう捉えるかぎり、ディランに文学賞を与えることは認められないという結論になるだろう。それとは正に反対の理由をノーベル文学賞委員会が挙げている。ホメーロスやサッフォー以来の歌われる詩こそが文学の原点であり本流であるという観点に立てば、結論はまるで逆になる。

おそらく、メトカフにとって、文学とは近現代に新たに出現した小説というジャンルを指すのだ。だから、こういう。

〈ディランが後代に向けて訴えてきたことは、村上春樹フィリップ・ロスの物語より壮大かもしれない。それでも、ポップ・ミュージシャンに文学の最高賞を与えることは話が別だ。文学という言葉の定義にも反している。〉

文学とはもともと歌われる詩であるという観点に立てば、メトカフのこの文学観は間違っている。それはメトカフもおそらく自覚している(「たぶん、私の考えは間違っているのだろう」)。

 

 

 

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2016年 10/25 号 [ボブ・ディランの真価]

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2016年 10/25 号 [ボブ・ディランの真価]