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「モナ・リザ」の鑑定に必要なものは

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿IX』角川書店、2011

 

モナ・リザ」の鑑定をめぐるミステリ。

主人公の鑑定士、凜田莉子にルーヴル美術館から「モナ・リザ」の真贋を鑑定する学芸員の登用試験を受けるよう誘いがある。日本での「モナ・リザ」展において万全を期すためのスタッフだ。万が一、「モナ・リザ」がすり替えられた際に真贋を鑑定するためだ。コンピュータ上では見分けがつかない精巧な贋作と本物の違いを見分ける直感を備えた人が求められる。

これには前日譚がある。シリーズ第5作『万能鑑定士の事件簿 V』において、莉子はルーヴルで「モナ・リザ」を見ている。そのとき、「これって……本物かなぁ?」とつぶやいているのだ。

このエピソードが本作の下敷きになっている。

莉子は正式のスタッフとなるための集中講義を日本で受け、無事終了する。

ところが、日常業務に戻った莉子に異変が起きる。今までの鑑定眼がすっかり失われているのだ。これはどうしたことか。すっかり自信を失った莉子はルーヴルのスタッフを辞退し、鑑定業も廃業して、故郷の波照間島に帰る。

莉子に起きるこの謎の異変が、本作の「モナ・リザ」鑑定と深く関係する。莉子の様子が気になった記者の小笠原は波照間島に向かう。

シリーズ中でも屈指の面白さ。

 

 

 

 

「詩人ボブ・ディラン」特集号

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2016年 10/25 号 [ボブ・ディランの真価]

 

「詩人ボブ・ディラン」特集号(2016年10月18日発売)。ディランのノーベル文学賞受賞が発表されたのが2016年10月13日。1週間足らずでまとめたにしては充実した内容だ。買う価値はある。

特集が始まる前のU.S.Affairs/PERISCOPEのページに、特集とは反対の方向の文章がある(16頁)。ニューズウィーク独自の記事といえるのはワイスの記事と2004年のインタビュー再録を除けばこれだけなので、かえって興味深い。

スティーブン・メトカフ(批評家)「ボブ・ディランの歌詞はノーベル賞に値せず」('He shouldn't have gotten the Nobel')

ディランの世界に対する貢献の例としてメトカフが挙げるのは次の例だ。

ジョン・レノンはディランに会うまで、ポップ音楽で「ラブ・ミー・ドゥ」以上のことは表現できないと考えていた。当時、レノンの頭の中は階級への怒りや壮大なアイデアで煮えたぎっていた。彼は自分の中で起きているカオスを芸術に昇華させるため、ディランにあう必要があったのだ。〉

レノンとディランの関係は確かに重要だ。しかし、メトカフの次の指摘はどうだろう。

〈文学とは静かに自分に向けて読むものだ。静寂と孤独は読書と不可分の関係にある。読書こそ文学に向かう唯一の道である。
 文学が静かで孤独な活動である、という考え方が生まれたのは、ルネサンス期に活版印刷術が発明された後のこと。静かな読書は人と人が交錯する場面をつくり出す。そのページに書かれた誰かの声が、私の声となって私の頭の中で鳴り響く。〉

文学をこう捉えるかぎり、ディランに文学賞を与えることは認められないという結論になるだろう。それとは正に反対の理由をノーベル文学賞委員会が挙げている。ホメーロスやサッフォー以来の歌われる詩こそが文学の原点であり本流であるという観点に立てば、結論はまるで逆になる。

おそらく、メトカフにとって、文学とは近現代に新たに出現した小説というジャンルを指すのだ。だから、こういう。

〈ディランが後代に向けて訴えてきたことは、村上春樹フィリップ・ロスの物語より壮大かもしれない。それでも、ポップ・ミュージシャンに文学の最高賞を与えることは話が別だ。文学という言葉の定義にも反している。〉

文学とはもともと歌われる詩であるという観点に立てば、メトカフのこの文学観は間違っている。それはメトカフもおそらく自覚している(「たぶん、私の考えは間違っているのだろう」)。

 

 

 

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2016年 10/25 号 [ボブ・ディランの真価]

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2016年 10/25 号 [ボブ・ディランの真価]

 

 

海水淡水化の画期的テクノロジーの謎

松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿VIII』角川書店、2011

 

舞台は台湾。

万能鑑定士の凜田莉子は故郷の波照間島の水問題に長年こころを砕いている。

そんなところへ突然「同島の生活用水供給につきまして問題解決のめどが立ちました故、ご報告させていただきます。なお、このお手紙をもちまして、渇水対策募金につきましては終了をご案内させていただきたく存じます。」との手紙が届く。いったいどういうことか。莉子は個人でこれまで50万円ほど対策募金に寄付してきた。それでも、募金総額は海水淡水化プラント建設に必要な額の0.1%未満との発表があったばかりだ。

いそぎ波照間島に戻ってみると、同島出身の嘉陽果煌議員が渇水対策の画期的なテクノロジーに出会って、その採択を提案したという。その実証映像を煌が莉子に見せてくれる。台湾の漁村で海上に船をだし、巨大なロートに仕込んだフィルターで塩分を除去し、真水になる一部始終を収めた記録だ。

議会ではすでに採択が決議され、町の年間予算の3分の1にあたる12億円でその新技術を買うという。

あやしいと直感した莉子は台湾に向かい、その発明者に会おうとする。故郷の旧友たち二人も同行する。そこからは波乱万丈の冒険と謎解きが連続し、スリリングな展開だ。

はたして海水の淡水化のトリックは何なのか。あっと驚く解決が待っている。

 

 

 

万能鑑定士Qの事件簿 VIII 「万能鑑定士Q」シリーズ (角川文庫)

万能鑑定士Qの事件簿 VIII 「万能鑑定士Q」シリーズ (角川文庫)

 

 

霞が関の常識は、世間の非常識——めずらしい気象ミステリ

松岡圭祐水鏡推理4 アノマリー講談社、2016

 

 研究不正をテーマにしてきた「水鏡推理」シリーズの第4作。本書では研究にからむ民間予報の問題をあつかう。従来、気象庁が行ってきた予報業務が近年、民間で実施可能となっている。民間予報業者、正式には予報業務許可事業者による予報。その予報のメカニズムに不正がないか。

 不正研究費の着服がテーマになる点ではこれまでの作品と同じだが、その構造的特質は文科省内にも存在する。財務省に媚びて予算をなるべく多く工面してもらうためには、あらゆる知恵を使う。

 その意味では、隠されたテーマは〈霞が関の常識は、世間の非常識〉だ。世間の目から見て非常識と思われることでも予算獲得のためなら官僚は実行する。

 タイトルの「アノマリー」は法則や理論と比較し説明不可能な事象のこと。「科学的な常識や原則から逸脱し、偏差を起こす場合もそう呼ぶ。」主人公の文科省の不正研究タスクフォースの水鏡瑞希は「天気の特異日は、科学的に実証されていなくてもたしかにそうなる、アノマリーの一種なんです」という。

 具体的には一年のうちどの日がそれに当たるか。瑞希はいう。「特異日英語圏ではシンギュラリティと呼びます。前後の日と比べ、偶然ではありえない高確率で、特定の気象状態が発生する日。一年を通じ何日かあります。首都圏を中心とした日本列島では、一月十六日、三月十四日、六月一日などが晴れ、三月三十日、六月二十八日、九月十二日などが雨です」と。

 本ミステリではこの特異日が重要な役割をはたす。その日を用いたトリックとは何か。

 民間予報業者の晴れの予報をもとに八甲田山に登った四人の「非行」少女たちが悪天に遭遇し集団で遭難する。気象庁は荒れ模様と予報していた。

 この遭難事件と不正研究とはどうかかわるのか。少女たちの捜索救出が生存限界とされる72時間の壁をめぐり切迫するなか、「非常識」な霞が関の暗部が炙り出される。

 

 

 

 

地磁気逆転と謎の人面塚

松岡圭祐水鏡推理3 パレイドリア・フェイス』講談社文庫、2016)

 

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 研究不正をあつかう「水鏡推理」シリーズの第3作(2016)。

 おもしろさは前作を上回る。最終部の盛り上がりはスリリングだ。

 これまでよりも年代の新しい地磁気逆転を発見したとする科学的報告に対し文部科学省から調査が入る。ほぼ同時に、近隣の山で突然謎の人面塚が発生する。

 これらをめぐって利害が関係する各人の思惑が交錯する。人面塚が発生した山の地主はそれを利用して一儲けし、過疎の村の観光資源にしようとする。山を管理する森林組合は担当者不足に頭を悩ます。文部科学省から派遣された主人公の水鏡瑞希ら研究不正に関するタスクフォースは真実を明らかにしようとする。文部科学省の幹部たちは環境省と何やら相談し、地磁気逆転の発見をしたとする科学者グループの研究を、不正と決めつけようとするかに見える。

 本のタイトルの「パレイドリア」(pareidolia)とは狭義にはシミュラクラともいい、雲や壁のしみが、目と鼻と口を連想させる配列というだけで、顔面と感じる心の作用のこと。

 山中の地震の際に隆起した地面が、上空から見ると二つの穴が目に、もう一つの穴が口に見えるというので大騒ぎになる。

 本書を読んでひとつ気になることがある。水鏡らはあくまで真実を明らかにしようと誠実にものを考えるのだが、文部科学省の上層部からの圧力は研究不正を正すというより、研究不正をむしろ作り出そうとする動きにも見える不可解なものだ。そこにはどうやら、除染廃棄物の中間貯蔵施設の建設がからんでいる。それに限らず、全国でさまざまな施設の建設問題が取り沙汰される。新たな震災による災害廃棄物や、ごみの最終処分場や焼却施設など。

 その候補地となったところがそれを回避するにはどうするか。科学的に重要な調査が始まることなども大きな要素になる。そこに不正があるかどうかは、文部科学省環境省にとっては重大な関心事になる。

 となると、最終的には国策レベルの思惑が働いていることになる。一国の科学研究の誠実さとは別のレベルの力学が働くことは、あってほしくないけれども、現実にはあり得るかもしれないと思わせられる。ことに国の原子力政策がからめば。この小説はそのあたりのグレーゾーンに少し踏み込んでいる。

 

 

[紙の本]  

水鏡推理3 パレイドリア・フェイス (講談社文庫)

水鏡推理3 パレイドリア・フェイス (講談社文庫)

 

 

 

[キンドル版] 

 

「水鏡推理」シリーズの第2作は「文献引用影響率」をめぐる不正

松岡圭祐水鏡推理インパクトファクター講談社文庫、2016)

 

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水鏡瑞希(みかがみ みずき)が活躍する「水鏡推理」シリーズの第2作。

瑞希は二十五歳。文部科学省の「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」の一般職の事務官。

瑞希の小学校のときの同級生が書いた、人工血管の発明に関する論文が、英国の有力誌に掲載されたことが大きく報道される。

この雑誌に掲載されることはインパクトファクターが高い。「文献引用影響率」のことで、ある科学誌に掲載された論文が引用された頻度をしめす数値。「ネイチャー」や「サイエンス」は30以上。この数値が高い雑誌に論文が掲載された研究者は出世の道が開かれる。

この人工血管は切断されても、傷口が自発的に吻合され再生する、自然治癒能力を有する点で画期的な発明。その新技術の発案者が二十五歳の大学院生、如月智美。瑞希の同級生だ。

瑞希はなぜかこの報道が気になり、調べだす。常識にとらわれて真相が見えない周りの思い込みに惑わされず、瑞希は独自の観点でこの掲載論文の問題点を炙り出す。

そのうちに論文の内容にミスや捏造が見られるとの声が上がりだす。共同著者の一人に過ぎない智美がその不正の元凶とみなされる流れができてゆく。どこかおかしいと瑞希は思う。

〈真実はあきらかにするものだ、決めつけるものではない〉

と確信している瑞希は、真実をあきらかにすべくあちこちを調べだす。

全体の7割くらいまでは、展開が早く、息もつかせぬおもしろさだ。

ところが、そこから最終の解決に至るまでは、やや説明が多く、プロットの回収に腐心しすぎて、物語の自然な展開のおもしろさが減る。

それでも、現代における科学研究のあり方についての貴重な示唆を多く含み、その方面に関心がある人や、また松岡圭佑の「人の死なないミステリ」ファンにも、おもしろく読めるだろう。
 
 

[紙の本]  

  

[キンドル版] 

 

 

[シリーズ第1作]

michealh.hatenablog.com

 

21世紀の「逃走論」

花房観音『情人』幻冬舎、2016)

 

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「縦に揺れ、布団に入ったまま宙に浮いてまた落ちた。」(16頁)

1995年1月17日午前5時46分。神戸。

「逃げてるよ。でもそれのどこが悪い? 無理にできないことをして倒れたり病んだりするよりは、逃げて、ひとりで生きていくほうがいい」(113頁)

ダメ人間の群像。男も女もある意味壊れている。

上の言葉を吐く兵吾は自分がダメ人間だとわかっている。

「そもそも、ちゃんと生きようという気がない。誰かのために生きるということも、できない」(113頁)

主人公の笑子の家族の崩壊が決定的になった阪神大震災の日から後の生き方。笑子は京都へ引っ越す。著者は京都をえがく筆致に定評がある。

タイトル通り「情」の諸相を纏う人間がテーマになっている。その「情」はどこか乾いており、それをえがく文体も乾いている。その芯のところに湿り気がないかというと、そうもいえない。しかし、どこに湿りがあるのかについて、言葉に出すこともできないし、実際わからない。

***

ある意味で米国のポスト黙示録と呼ばれる小説とどこか味わいが似ている。

先の見えない、得体の知れない脅威に圧し潰されそうになっている21世紀の現代でサバイバルを図るために、多くの人びとが無意識のうちにあみ出した戦術といえるほどでない戦術。それが男女の情交を通じて、震災後の日本を背景にして描かれている。逃げて逃げて逃げまくれ。それのどこが悪いというのか。そんな声にならぬ叫びや呻きが地の底から聞こえてくる。

笑子の心の声は本心だ。

「逃げてる——兄も、母も——私も、逃げている。だから兵吾ひとりを、責められない。」(114頁)

しかし、逃げることには罪悪感がともなう。その罪悪感からは逃れられない。

震災後、生きのびた人々は、震災で死んだ人々に対し、罪悪感を心のどこかに抱いている。逃げる。逃げたい。けれど、逃げられない。このディレンマは震災後の21世紀を生きる人々についてまわる。

人により逃げる対象が違う。しかし、罪悪感だけは一緒だ。元の彼女を震災で亡くした片岡がなんで「俺が生きているんだろう」と罪悪感を感じるが、笑子も違う罪悪感を抱くことに気づく。

「片岡の口から発せられた罪悪感という言葉が胸に響いたのは、自分が片岡とは違う種類の罪悪感を背負っていたからだ。街からも家からも逃げたという罪悪感を。」(140頁)

しかし、震災後の世界で自分で自分を責めることが正しいことなのか。その問いをこの小説は突きつける。

震災の年に神戸の新聞社に入って復興を追い続けてきた片岡は、街が昔の輝きを取り戻してきたのを機に退職し、小出版社に就職する。それは罪悪感が少しは軽くなったということかという笑子の問いに片岡は答える。

「いや……俺のすべきことは、もう震災を追うことやないって思って……じゃあ次に何をやるべきかというのは、考え中。罪悪感はまだあるよ、毎日感じてる。朝起きて、あ、俺、生きてるって考える度に、俺はこれから何をすべきなのかって、考えてる」(141頁)

笑子はこの答えに「あの震災の日以来、ずっと抱えているものを、この人は言葉にしてくれた」と思い、ふいに心が軽くなる。

これから何をすべきなのか。その問いがあるだけでも救われる。

***

小説の舞台は2006年以降、東京へ移る。仕事場が東京に移った笑子が三都市を比較する。

「三月の東京はまだまだ寒い。
 けれど京都よりもましだ。寒さも、暑さも。神戸も暑いけれど、寒さは東京とはどっこいどっこいだ。東京の空は高い建物で視界が阻まれ、眺める度に狭いと思ってしまう。東西南北がわからないのは、神戸のように海と山が見えないからだ。」(278頁)

京都の空はどこでも見える。高い建物がないから。空と都市とは案外重要な関係がある。

***

笑子は「あれ以上の災害はないと、何の根拠もなく思っていたのは私だけではないだろう」と述懐する。だが、東京にいた笑子に2011年3月11日午後2時46分が訪れる。「こんなことになるなんて思いもしなかった」と笑子は思う。笑子は神戸のときとの違いをこう考える。

阪神・淡路大震災のときもたくさん人が亡くなり街は崩壊したけれど、形あるものは時間をかけて元どおりになっていった。けれど今度の震災は、形あるもの以上に人間を壊した。」(295頁)

それは新たな形をとった。

「嫌なニュースが連日流れてくる。インターネットのせいだ。家で安全な場所にいるものたちが、社会を、人を罵倒する言葉を繰り返す。」(295頁)

既視感がある。米大統領選後、同じような言葉がインターネットに溢れていた。

現代のクロニクルとして、神戸・京都・東京で1995年から2015年までを過ごした笑子の生き方をえがく小説。笑子(えみこ)と運命の出会いをする兵吾(へいご)が、同じ母音 /e/, /i/, /o/ を有するのは偶然なのか。

日本を変える史的断面を生きた人びと。その人間模様を描き出した小説として余韻が残る。

 

 

[紙の本] 

情人

情人

 

 

[キンドル版]

情人 (幻冬舎単行本)

情人 (幻冬舎単行本)