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食は世につれ革命につれ

片野 優 (著), 須貝 典子 (著)『料理でわかるヨーロッパ各国気質』実務教育出版 、2016

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ヨーロッパ各国の食や酒をセルビア在住のジャーナリストとライターの二人(夫妻)が書いた本。特にハンガリーチェコの章がおもしろい。

帯に「イギリス料理はなぜまずい?」とか「ワインで人物鑑定するフランス人」とか「国家破綻の危機にあるギリシャがメタボ天国?」の字がおどる。これらは一般読者向けのいわば「つかみ」で、本当にユニークなのは、一般的でない中欧諸国の料理やビール(バドワイザーのルーツがボヘミアチェスケー・ブジェヨヴィツェであるなど)について書いた章だ。

とりあげた国は欧州20カ国。「EU危機の本質を食から読み解く」「ユニークなヨーロッパ論の誕生!」と書いてあり、確かに食を通してみたヨーロッパ各国の姿は政治や経済からみる姿と違い、ユニークだ。

巻頭に7ページのカラー写真があり、各国料理が垣間見られるが、本文中には白黒のイラスト(ミヤタチカによる)が挿入されるのみで、ややさびしい。本当は写真資料は大量にあるはずで、白黒でもいいから写真がもっと見たい。特に、レストランの写真が皆無なのは決定的に惜しい。本書を読んで旅に出かけたくなる読者は多いだろうに。

読者が興味を惹かれる点の説明がないケースがある。例えば、最初のイギリス料理の章に「ヨーロッパで二番目にまずい料理の国」の見出しがあり、読み進んでも、その見出しに対応する記述が出てこない。おそらくイギリスのことだろうとは想像がつくが、一番目の国がどこかも書かれていない。この種のランキングは取り方によりかなり変動するので、もとにしたランキング資料も明記してほしい。

もう一つ注文を。最後の章で「トルコの代表的スイーツ」として「トルコの喜び」という名が挙げられている。その綴りが「Torkish Delight」と書いてある。英語だろうか。もし英語のつもりなら、恥ずかしいので次の版で訂正してほしい。これに気づいて、本文中に出てきた他の外国語が一挙に怪しくなった。ドイツの章の「それは私にとってはソーセージ(Das ist mir wurst)」を見て目が点になった。この本には校正がされているのだろうか。外国語の校正は日本語の校正者の任を超えると思う。

いろいろ注文をつけたが、内容はバラエティに富み、興味深い。ヨーロッパ各国の料理に関心がある人にとっては得難い書。
そもそも食は一朝一夕に出来上がったものでない。背景には歴史的経緯がある。その歴史の部分を解き明かす部分が本書ではことにおもしろい。

イギリスの食が劇的に変化(あるいは衰退)した契機に産業革命があること、美食文化で知られるフランスはフランス革命を契機にレストランの数が劇的に増えたことを述べる巻頭の二章は白眉。

白眉とはいっても、これらはよく知られている内容で、本当に本書にしか見られないユニークな内容は中欧諸国について述べたところであると思う。

 

料理でわかるヨーロッパ各国気質

料理でわかるヨーロッパ各国気質

 

 

端正な恋物語(同工異曲にあらず)

南 潔『黄昏古書店の家政婦さん ~下町純情恋模様~』マイナビ出版、2016

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 誤解を受けやすいタイトルと表紙。しかし、読んでみると、そんなことはない。

 古書店と若い女性。この取合せから想像される、例の謎解きに富んだ、古書の蘊蓄満載の人気シリーズとは趣を異にする。

 これは純粋な恋物語だ。めったに風呂に入らぬ四十手前の古書店主、山下一生と、高校を卒業したばかりの家政婦、菅沼宵子の恋の物語。

 しかし、恋が主題に浮かび上がるのはむしろ作品後半である。それはそうだろう。三食もまともに摂らず、身の回りも清潔にしない男性のどこに十八の女性にとっての理想像が見られよう。したがって、作品前半は、この荒れはてた店主の生活を立て直すことに女性のエネルギーが注がれる。

 作品が幻想味を帯びる瞬間がある。「まんじゅしゃげ奇譚」と題された章で、宵子は神社近くの人気のない道で男の子に出会う。「こーこはどーこのほそみちじゃ」の唄声で気づいたが、通り過ぎたときには気づかなかった子供だ。「ねえ、ぼく。そこでなにしてるの?」と訊くが何も応えぬ。胸に古びた絵本を抱えている。体は擦り傷だらけ。おまけに裸足。そこの用水路は深く、危険なため、宵子は子供を知合いの店に連れて行く。

 ここから子供は不思議な消息をたどるが、山下一生が独自の解釈を開陳し、この店主の深みが読者にも知られてゆく。宵子の見る目も変わる。それからいろいろな小事件が重なり、世間知らずの宵子が人生に倦んだ店主に体当たりでぶつかってゆく。

 いまどき珍しい純愛の物語といえる。めったにルビをふらぬ端正な文体ながら、最後まで飽きさせず、ライトノベルばりの読みやすさで登場人物の群像物語に引込む手腕はなかなかのものだ。めっけもの。

 

黄昏古書店の家政婦さん ~下町純情恋模様~ (マイナビ出版ファン文庫)

黄昏古書店の家政婦さん ~下町純情恋模様~ (マイナビ出版ファン文庫)

 

 

言語学的に厳密な訳と注がスリリング

旧約聖書翻訳委員会 (著), 松田 伊作 (翻訳)旧約聖書〈11〉詩篇』(岩波書店、1998)

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岩波書店の「旧約聖書」シリーズの第11分冊。岩波の聖書は単なる詳注版でなく、訳にも大胆な新解釈がもりこまれ、スリリングな巻が多い。

岩波版旧約聖書の特徴は四つある。

1. ヘブライ語原典に従った範囲および配列。
2. 内容理解への補助手段。
3. 訳者名の明示。
4. 翻訳の不偏性。

他と比べて際立つのは3番目の特徴だ。最終的な文責を個人が負う。本書の訳者は松田伊作。

ヘブライ詩の並行法はすべての詩の基本原理を解き明かす上で重要なので、およそ詩に関心があるひとには本書の言語学的に厳密な訳や注は興味深いだろう。(並行法についての巻末の説明は簡にして要を尽くす。)

※ 20世紀に言語学者ローマン・ヤーコブソンが詩的並行法の普遍性を論じた根拠が18世紀の詩学者ロバート・ラウスのヘブライ詩論にあることが広く知られている。

訳文ではっとさせられる箇所が多いが一つだけ例を引く。「神と共にあることを許された義人」についてうたう詩篇15.5。

おのが金を利息付きでは貸さず、
無実の者を陥れる賄賂を取らない。
これらを行なう者は
とこしえに揺るがされない。

この訳の直截に驚く。米詩人エズラ・パウンドが生涯をかけて訴えた西欧の悪の根源の一つ Usura 「ウースーラ(高利貸し)」への厳しい姿勢がこの箇所から窺える。そのインパクトは現在の標準訳である新共同訳ではやや弱まる。

金を貸しても利息を取らず
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。
これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。

この新共同訳は独自性を出すというよりフランシスコ会訳をふまえたのだろう。

金を貸して利息を取らず、
わいろを受けて 罪なき人の不利を はかりはしない。
このように ふるまう人は、
とこしえに ゆるぐことがない。

岩波版はこの詩篇15を「入場律法」と見なす。その点の基本理解は同じでありながら、詩編小委員会訳では「正しい対人関係が強調されており、新約の愛のおきての旧約的序曲となっている」と、力強い解釈にふみこんでいる。

金を貸して利をむさぼらず、
わいろを取って罪のない人を苦しめない。
このように ふるまう人は、
とこしえに ゆらぐことがない。


岩波版の訳注で論議を呼ぶと思われるのが詩篇29.1の注。詩の本文を引く。

ヤハウェに帰せよ、神々(エリーム)の子らよ、
ヤハウェに帰せよ、栄光と力を。

これに対する訳注。

「エリームの子ら」はここと89.7だけ。神話的な天上の神々の世界を下敷きにして、異教の神々、さらにはこの世で神々のように振舞う権力者らを指したのであろう。

岩波版しか読まない人がこの注を鵜呑みにするのは危ない。テクスト編纂史をより具体的にふまえたフランシスコ会の訳注も併読する方が安全だ。まず詩本文。

神の子らよ、ヤーウェに帰せよ、
栄光と力をヤーウェに帰せよ、

詩篇29に対する注。

賛美詩編に属する本詩は、詩編の中で最も古いものの一つと思われる。おそらく、あらしの神バアルをたたえる古代カナン人の詩を、ヤーウェに適応させたものであろう。

詩篇29.1に対する注。

本詩の前身と思われるカナン詩においては、「神(ここでは「エル」)の子ら」は、最高の神「エル」の下に位する神々の意味であろう。イスラエル時代には、この表現は、神をとりまく廷臣としての天使たちをさしたものと思われる(ヨブ1.6参照)。後には、信心深い有徳の人々に適用されるようになった。

本文の解釈が違うので注の違いが分かりにくいが、本文については岩波版、注についてはフランシスコ会訳に見るべきものがあるように思われる。つまり、どれほどよい訳や注であっても、一つの訳や注のみでは足りないということだ。

 

旧約聖書〈11〉詩篇

旧約聖書〈11〉詩篇

 

 

シスター・スタンの珠玉の断想集

Sister Stan, Stillness: Through My Prayer (Town House, 2005)

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アイルランドのシスター・スタンの断想をテーマごとに集めた本。

テーマは

・beyond fear
・trust
・letting go
・mystery
・truth
・awakening
・acceptance
・stillness

の8つ。シスター・スタンの読者にはおなじみのテーマも多い。それぞれ別個のテーマのようでいて、内的には連関していることがある。最終的には最後のテーマの stillness 「平穏」「静かな境地」「かき乱されぬ平静な心境」「静けさ」「沈黙」に至る。

瞑想や黙想を行おうとするひとが少しづつ読んで、現在の瞬間に集中し、余計な物思いに煩わされない境地(マインドフルネスに似ている)を目指すためにも使えるだろう。

ことばは平易だ。平易だけれども、ふかい思索に裏打ちされた叡智の光が滲みでるような文章だ。

全部で270ページある。その中で特に印象深いことばをひとつだけ引用する。
False humility deludes me into trying to be what I am not and prevents me from acknowledging my gifts and the gift of others.
With true humility, I feel secure in uncertainty; I own my gifts, recognise the gifts of others, and give thanks. (p. 219)

(大意)
偽りの謙遜をもつと自分が自分でない者だと勘違いしてしまう。そうなると自分の才能や他人の才能も認めることがなくなる。
真の謙遜があれば、不安のなかに安心を感じる。自分の才能を自分のものとして認知し、他人の才能も認め、感謝のこころをいだく。

(黙想)
偽りの謙遜のこころは自分を見えなくする。自分を自分以下のものと見積もる。それは本当の自分の力、他者の力を知ることを妨げる。
真の謙遜のこころは不安定なときも安心を感じさせる。不安だからと右往左往することなく、そこに安らぐことができる。そのとき初めて自分に与えられたものを受入れ、他者のそれも曇りなく見る。そして感謝のこころがうまれる。 
Stillness: Through My Prayer

Stillness: Through My Prayer

 

 

ピアノの内部から宇宙を見る

宮下奈都『羊と鋼の森文藝春秋、2015)

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宮下奈都は調律師の理想を表すことばを探った。

そして、詩人・原民喜のごく短い、千字足らずの随筆「沙漠の花」から次のことばを引いた。

 

明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体

本書では現代仮名遣いに直されている

 

このことばは、堀辰雄の「荒涼としたなかに咲いてゐる花のやうにおもはれた」作品「牧歌」から想を得た文体観だ。同随筆の最後に、原は「荒涼に耐へて、一すぢ懐しいものを滲じますこと」ができれば思い残すことはないと書く。

本書の主人公・外村は高校生のときに体育館で出会った天才的調律師・板鳥に感化され、調律師を目指す。それまで音楽の素養もなく、山や森の暮らししか知らなかった青年が、西洋音楽の洗練の極致であるピアノという楽器を調整する仕事に就こうとする。ふつうに考えれば無理筋だ。

その物語を宮下はいつもの繊細さをすこし抑え、調律師やピアニストの人間模様のなかに情緒ふかく描いてゆく。やや予定調和的なプロットながら、静かな幸福感がじわじわと読者の胸に満ちてくる。

ピアニストの立場から一言だけいうと、和音(わおん)とピアノの関係をくわしく綴るくだりは、やや現実味が薄い。もう一人の主人公、高校生の和音(かずね)を印象づけるためなのかもしれないけれど、理論的にはまったく不要に思われる。

それよりも、ピアニスト和音とのことをもっと掘り下げてもよかった。最初に外村が和音のピアノに惹かれたときから、和音がピアニストとしての天命に目覚めるまでをもう少し丁寧に書いてほしかった。この和音との出会いが外村の運命をも変えてゆくことになるのだから、そこにもっと余韻が生じるような奥行きがほしい。それでこそ、初めて沙漠に花が咲く。 
羊と鋼の森

羊と鋼の森

 

 

ゾーヴァのグミベアー

ドイツのミヒャエル・ゾーヴァの絵を3冊の絵本で愉しんだ。

1. ちいさなちいさな王様
2. 思いがけない贈り物
3. クマの名前は日曜日

まず、『ちいさなちいさな王様』

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アクセル・ハッケ作(講談社、1996)。内容にふかみがあり絵が魅力を高めている。「大人のための童話」と称されるが確かに大人でも読みごたえがある。翻訳もいい。読んだあとにグミベアの存在感が増す(?)かもしれない。クマの形のグミだが王様の好物なのだ。

この王様、いまはちいさいが元は大きかった。つまり、生まれて以降だんだんちいさくなる。ふつうの人間と逆だ。しかし、それと反比例するように夢がだんだんおおきくなる。これもふつうの人間と逆だ。そこに本作の最大のポイントがある。それにしても、最初がおおきいのなら、どうやって生まれるのか。

星をみたときふつうの人間はおのれの卑小を感ずる。ところが王様は星をみておのれが宇宙大にまで膨張する。まるで米詩人ホィットマンの「ぼく自身の歌」ばりの宇宙意識だ。

何度も熟読に値する傑作。

つぎは、『思いがけない贈り物』

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エヴァ・ヘラー作(講談社、1997)。サンタクロースが用意したプレゼントのうち人形がひとつ余ってしまう。どの子供に配るべきなのかをサンタが探しまわる話。

現代っ子気質がよく活写されている。人形ひとつとっても、子供との関係が一様でないことが分かる。佳作。

さいごに、『クマの名前は日曜日』

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アクセル・ハッケ作(岩波書店、2002)。幼少のころのクマのぬいぐるみの思い出を語るのに、枠構造をとっているのだが、翻訳のせいか、話が分かりにくい。枠の部分の一人称が「わたし」、中身の話の一人称が「ぼく」。なぜ二つを区別しているのか分からない。7頁の「そのときからわたしは、いや、ぼくは、日曜日という名前のクマと、いつもいっしょだった。」の原文をみてみたい。本当にそんなことが書いてあるのか。「わたし」の方は大人、それも人生の後半に達した大人を感じさせはするが、ドイツ語でそんなことが表現できるのか。

この翻訳文は何度よんでも話の内容がさっぱり頭に入らない。ゾーヴァの絵はすばらしい。
 

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ちいさなちいさな王様

ちいさなちいさな王様

 

 

思いがけない贈り物

思いがけない贈り物

 

 

クマの名前は日曜日

クマの名前は日曜日

 

 

 

 

うーん、ちょっとちゃう

ジョン・クラッセン『ちがうねん』クレヨンハウス、2012

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大阪は藤井寺出身の絵本作家・長谷川義史大阪弁で翻訳した絵本。大きな魚が帽子を盗られた。果たして取り返せるのか?

すっとぼけた小魚が犯人と初めから分かっている。ミステリでいうなら「倒叙」(inverted)タイプだ。

分かっているにもかかわらず、最後までハラハラさせられる。見事だ。

一つだけ気に入らない点がある。タイトルだ。藤井寺の人は本当に「ちがうねん」なんて言うのか?

絶対に「ちゃうねん」と言っていると思う。断言してもいい。「ちがうねん」という形には、場合によっては言語学でいう非文(nonsentence)のしるし「*」を付けなければならないのではないか。元はそういう形だったと推定できるとしても、現実にそう言う人が本当にいるのか。

あるとしたら、大阪弁の台本を脚本作家かなんかが書いて、それを律儀にNHKラジオドラマで演じるときくらいだろう。別にまちがいではない。

この本で「ちがうねん」は最初のページに出てくる。

 

このぼうし ぼくのと ちがうねん。
とってきてん。

原文は

 

This hat is not mine.
I just stole it.

Jon Klassen, This Is Not My Hat (Walter Books, 2012).

この英語にはとくに「ちがうねん」的なニュアンス(どんなニュアンス?)は感じられない。というか、完全に標準的な英語だ。

この「問題」を考えるには、「ねん」を取った形を思い浮かべてみるといい。「このぼうし ぼくのと ちがう」と言ったらどうなるか。どこにも大阪弁らしさはない(耳で聞かないかぎり)。むしろ、ほとんどの人は標準語と考えるのではないか。(姑息にも)「ねん」をつけることで(擬似)大阪弁らしくしているだけではないのか。「ねん」を付けなくても「ちゃう」と言うだけで大阪弁になるのだが。おそらく、「とってきてん」と語呂をそろえたのだろう。

この本にはちょっと「ねん」が多すぎる。

などと文句をつけたが、この本は絵本として純粋にすばらしい絵本で、おすすめです。大阪の子育て中のひとはぜひお子さんに読んであげましょう。長谷川さんの翻訳は絵とマッチしていてユーモラスで、お子さんはきゃっきゃっ言って喜ぶことでしょう。

実は、ひとつだけ疑問がある。『ちがうねん』の最後はどうなったんだろう。あのすっとぼけた小魚の運命は?

似た疑問は『どこ いったん』のラストにもあるのだけど、そちらは裏の見返しのところにヒントがあり、助かる。

3回読み返したけれど、『どこ いったん』以上の傑作だと思う。「ねん」の問題なんか、小さい(ちっさい)。

 

 

ちがうねん

ちがうねん