シスター・スタンの珠玉の断想集
Sister Stan, Stillness: Through My Prayer (Town House, 2005)
テーマは
・beyond fear
・trust
・letting go
・mystery
・truth
・awakening
・acceptance
・stillness
の8つ。シスター・スタンの読者にはおなじみのテーマも多い。それぞれ別個のテーマのようでいて、内的には連関していることがある。最終的には最後のテーマの stillness 「平穏」「静かな境地」「かき乱されぬ平静な心境」「静けさ」「沈黙」に至る。
瞑想や黙想を行おうとするひとが少しづつ読んで、現在の瞬間に集中し、余計な物思いに煩わされない境地(マインドフルネスに似ている)を目指すためにも使えるだろう。
ことばは平易だ。平易だけれども、ふかい思索に裏打ちされた叡智の光が滲みでるような文章だ。
全部で270ページある。その中で特に印象深いことばをひとつだけ引用する。
False humility deludes me into trying to be what I am not and prevents me from acknowledging my gifts and the gift of others.
With true humility, I feel secure in uncertainty; I own my gifts, recognise the gifts of others, and give thanks. (p. 219)
(大意)
偽りの謙遜をもつと自分が自分でない者だと勘違いしてしまう。そうなると自分の才能や他人の才能も認めることがなくなる。
真の謙遜があれば、不安のなかに安心を感じる。自分の才能を自分のものとして認知し、他人の才能も認め、感謝のこころをいだく。
(黙想)
偽りの謙遜のこころは自分を見えなくする。自分を自分以下のものと見積もる。それは本当の自分の力、他者の力を知ることを妨げる。
真の謙遜のこころは不安定なときも安心を感じさせる。不安だからと右往左往することなく、そこに安らぐことができる。そのとき初めて自分に与えられたものを受入れ、他者のそれも曇りなく見る。そして感謝のこころがうまれる。
ピアノの内部から宇宙を見る
宮下奈都は調律師の理想を表すことばを探った。
そして、詩人・原民喜のごく短い、千字足らずの随筆「沙漠の花」から次のことばを引いた。
明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体
[本書では現代仮名遣いに直されている]
本書の主人公・外村は高校生のときに体育館で出会った天才的調律師・板鳥に感化され、調律師を目指す。それまで音楽の素養もなく、山や森の暮らししか知らなかった青年が、西洋音楽の洗練の極致であるピアノという楽器を調整する仕事に就こうとする。ふつうに考えれば無理筋だ。
その物語を宮下はいつもの繊細さをすこし抑え、調律師やピアニストの人間模様のなかに情緒ふかく描いてゆく。やや予定調和的なプロットながら、静かな幸福感がじわじわと読者の胸に満ちてくる。
ピアニストの立場から一言だけいうと、和音(わおん)とピアノの関係をくわしく綴るくだりは、やや現実味が薄い。もう一人の主人公、高校生の和音(かずね)を印象づけるためなのかもしれないけれど、理論的にはまったく不要に思われる。
それよりも、ピアニスト和音とのことをもっと掘り下げてもよかった。最初に外村が和音のピアノに惹かれたときから、和音がピアニストとしての天命に目覚めるまでをもう少し丁寧に書いてほしかった。この和音との出会いが外村の運命をも変えてゆくことになるのだから、そこにもっと余韻が生じるような奥行きがほしい。それでこそ、初めて沙漠に花が咲く。
ゾーヴァのグミベアー
ドイツのミヒャエル・ゾーヴァの絵を3冊の絵本で愉しんだ。
2. 思いがけない贈り物
3. クマの名前は日曜日
まず、『ちいさなちいさな王様』。
アクセル・ハッケ作(講談社、1996)。内容にふかみがあり絵が魅力を高めている。「大人のための童話」と称されるが確かに大人でも読みごたえがある。翻訳もいい。読んだあとにグミベアの存在感が増す(?)かもしれない。クマの形のグミだが王様の好物なのだ。
この王様、いまはちいさいが元は大きかった。つまり、生まれて以降だんだんちいさくなる。ふつうの人間と逆だ。しかし、それと反比例するように夢がだんだんおおきくなる。これもふつうの人間と逆だ。そこに本作の最大のポイントがある。それにしても、最初がおおきいのなら、どうやって生まれるのか。
星をみたときふつうの人間はおのれの卑小を感ずる。ところが王様は星をみておのれが宇宙大にまで膨張する。まるで米詩人ホィットマンの「ぼく自身の歌」ばりの宇宙意識だ。
何度も熟読に値する傑作。
つぎは、『思いがけない贈り物』。
エヴァ・ヘラー作(講談社、1997)。サンタクロースが用意したプレゼントのうち人形がひとつ余ってしまう。どの子供に配るべきなのかをサンタが探しまわる話。
現代っ子気質がよく活写されている。人形ひとつとっても、子供との関係が一様でないことが分かる。佳作。
さいごに、『クマの名前は日曜日』。
アクセル・ハッケ作(岩波書店、2002)。幼少のころのクマのぬいぐるみの思い出を語るのに、枠構造をとっているのだが、翻訳のせいか、話が分かりにくい。枠の部分の一人称が「わたし」、中身の話の一人称が「ぼく」。なぜ二つを区別しているのか分からない。7頁の「そのときからわたしは、いや、ぼくは、日曜日という名前のクマと、いつもいっしょだった。」の原文をみてみたい。本当にそんなことが書いてあるのか。「わたし」の方は大人、それも人生の後半に達した大人を感じさせはするが、ドイツ語でそんなことが表現できるのか。
この翻訳文は何度よんでも話の内容がさっぱり頭に入らない。ゾーヴァの絵はすばらしい。
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うーん、ちょっとちゃう
ジョン・クラッセン『ちがうねん』(クレヨンハウス、2012)
大阪は藤井寺出身の絵本作家・長谷川義史が大阪弁で翻訳した絵本。大きな魚が帽子を盗られた。果たして取り返せるのか?
すっとぼけた小魚が犯人と初めから分かっている。ミステリでいうなら「倒叙」(inverted)タイプだ。
分かっているにもかかわらず、最後までハラハラさせられる。見事だ。
一つだけ気に入らない点がある。タイトルだ。藤井寺の人は本当に「ちがうねん」なんて言うのか?
絶対に「ちゃうねん」と言っていると思う。断言してもいい。「ちがうねん」という形には、場合によっては言語学でいう非文(nonsentence)のしるし「*」を付けなければならないのではないか。元はそういう形だったと推定できるとしても、現実にそう言う人が本当にいるのか。
あるとしたら、大阪弁の台本を脚本作家かなんかが書いて、それを律儀にNHKラジオドラマで演じるときくらいだろう。別にまちがいではない。
この本で「ちがうねん」は最初のページに出てくる。
このぼうし ぼくのと ちがうねん。
とってきてん。
原文は
This hat is not mine.
I just stole it.
Jon Klassen, This Is Not My Hat (Walter Books, 2012).
この英語にはとくに「ちがうねん」的なニュアンス(どんなニュアンス?)は感じられない。というか、完全に標準的な英語だ。
この「問題」を考えるには、「ねん」を取った形を思い浮かべてみるといい。「このぼうし ぼくのと ちがう」と言ったらどうなるか。どこにも大阪弁らしさはない(耳で聞かないかぎり)。むしろ、ほとんどの人は標準語と考えるのではないか。(姑息にも)「ねん」をつけることで(擬似)大阪弁らしくしているだけではないのか。「ねん」を付けなくても「ちゃう」と言うだけで大阪弁になるのだが。おそらく、「とってきてん」と語呂をそろえたのだろう。
この本にはちょっと「ねん」が多すぎる。
などと文句をつけたが、この本は絵本として純粋にすばらしい絵本で、おすすめです。大阪の子育て中のひとはぜひお子さんに読んであげましょう。長谷川さんの翻訳は絵とマッチしていてユーモラスで、お子さんはきゃっきゃっ言って喜ぶことでしょう。
実は、ひとつだけ疑問がある。『ちがうねん』の最後はどうなったんだろう。あのすっとぼけた小魚の運命は?
似た疑問は『どこ いったん』のラストにもあるのだけど、そちらは裏の見返しのところにヒントがあり、助かる。
3回読み返したけれど、『どこ いったん』以上の傑作だと思う。「ねん」の問題なんか、小さい(ちっさい)。
静と動のミステリ絵本
ジョン・クラッセン『どこいったん』(クレヨンハウス、2011)
ジョン・クラッセンの2つの絵本『どこ いったん』(クレヨンハウス、2011)と『ちがうねん』(クレヨンハウス、2012)は大阪は藤井寺出身の絵本作家・長谷川義史が大阪弁で翻訳している。
この両者はミステリとしてみると性格に違いがある。前者は「犯人探し」(whodunit)タイプだ。定石として犯人は読者の前に現れているのだけれど、見事に最後まで気づかせない。後者は犯人が初めから分かっている「倒叙」(inverted)タイプだ。
長谷川さんは「ちちんぷいぷい」(MBSテレビ)で時々やる紀行企画「とびだせ!えほん」に出演し、各地の風景を描いている。そのスケッチのひょうひょうとした味わいは一度みたら忘れられない。ここでは大阪弁での翻訳で絵本の新境地を開いている。
主人公とおぼしいクマの二つの相が気になる。静と動だ。ほとんどの場面でクマは手を両脇に下ろしている。静かにぬうと立つ姿からは何を考えているか、つかめない。クマは自分の帽子が行方不明になり、探し歩く。が、なかなか行方が知れない。
あるとき、パッとひらめく。そこからスイッチが入ったかのように動に転ずる。そのとき、クマは両手をふっている。
クマが両手を上げる動作はそれだけで怖ろしい。なにか暴力装置が発動したかのような緊迫感に読者はとらわれる。
クマと他の動物たちとの対話のことばは、大阪弁のせいで一貫してやわらかくひびくが、クマと犯人との関わりの部分だけ、調子が違う。一言でいってとんがっている。それも大阪弁でよく表現されている。
3回読んだけど、読むたびに印象が変わる。多様な読みを生むのは傑作のしるしだ。
怪異を超えた神話的存在
葉山 透『0能者ミナト (9)』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2015)
ダイダラボッチという名前は聞いたことがあった。宮崎駿の映画「もののけ姫」で見たことがある。
だから、大体のイメジはあったものの、本作に出てきたダイダラボッチは、もっと神話の根源に近い。そんなもの、これまで怪異相手に退治してきた御蔭神道や総本山でも、まったく無理だ。歯が立たない。
身長2,000mなんて富士山の半分以上の高さだし、日本全国に神出鬼没となると対応がむずかしい。しかも、実害を与える本体部分と、被害の幻影を見せるまぼろし部分とがあり、どちらが出てくるか分からない。
そこで0能者ミナトの出番だ。彼がいったいどんな方法で解決するのか、興味津々で読みすすめると、古代と現代のそれぞれ最もディープなアプローチをとる。 つまり、本質の最奥部にまっしぐらの、いわれてみれば正攻法のど真ん中だ。それだけに、だれも思いつかなかった。古事記神話における世界創造の場面の、あ る兵器と、量子力学的思考から導かれた、「天使と悪魔」(ダン・ブラウン)ばりの超科学的方法との二つだ。
常識的人間には奇想天外な方法に見える。ミナト本人も100%成功の確信はない。数パーセントの不安がのこる。失敗すれば、日本は終わりだ。いったいどうなるのか。最後まで惹きつけられる。
遺伝の法則を復習しよう
葉山 透『0能者ミナト (8)』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2014)
霊能力などによらず、論理と理性で怪異の問題を解くがゆえに、その筋では評判の悪い湊が主人公のシリーズも第8巻まで来た。今回の怪異事件は人里離れた館で発見されるふたりの赤ん坊に端を発する。
そのふたりは怪異の子ではないか。つまりその子らそのものが怪異ではないかと噂になる。ふたりをあずかっていた神道側と仏教側に突然その噂を裏づける資料がわたり、両者はふたりを怪異として排斥にかかる。
そこから事件は急展開する。ふたりは追い詰められて逃げる。もともと愛し合っていたふたりの一夜の契りから、予想通りというべきか、怪異の子が1日で生ま れる。その怪異の子の強いこと。神道・仏教両方の能力者が束になってかかっても敵わない。おまけに、両者のなかに怪異に変ずる者が続出する。
ところが、事件を担当した湊は、ふたりは人間だという。遺伝の法則により今回は怪異が生まれたというのだ。
この謎解きにはうならされる。そこから事態はさらに意外な方向へ展開し、そもそもこのふたりが生まれた起源にまで行きつく。
今回のテーマは、怪異と人間の遺伝子が交わればどう遺伝するかという問題だったけれども、この遺伝法則はほかのすべてにも原理的に当てはまる。常に冷静に問題を考える必要があることを痛感させられる。
ストーリーとしては第一話「劣」だけでもよかった。無理に長編にする必要はなかったのではないか。