うーん、ちょっとちゃう
ジョン・クラッセン『ちがうねん』(クレヨンハウス、2012)
大阪は藤井寺出身の絵本作家・長谷川義史が大阪弁で翻訳した絵本。大きな魚が帽子を盗られた。果たして取り返せるのか?
すっとぼけた小魚が犯人と初めから分かっている。ミステリでいうなら「倒叙」(inverted)タイプだ。
分かっているにもかかわらず、最後までハラハラさせられる。見事だ。
一つだけ気に入らない点がある。タイトルだ。藤井寺の人は本当に「ちがうねん」なんて言うのか?
絶対に「ちゃうねん」と言っていると思う。断言してもいい。「ちがうねん」という形には、場合によっては言語学でいう非文(nonsentence)のしるし「*」を付けなければならないのではないか。元はそういう形だったと推定できるとしても、現実にそう言う人が本当にいるのか。
あるとしたら、大阪弁の台本を脚本作家かなんかが書いて、それを律儀にNHKラジオドラマで演じるときくらいだろう。別にまちがいではない。
この本で「ちがうねん」は最初のページに出てくる。
このぼうし ぼくのと ちがうねん。
とってきてん。
原文は
This hat is not mine.
I just stole it.
Jon Klassen, This Is Not My Hat (Walter Books, 2012).
この英語にはとくに「ちがうねん」的なニュアンス(どんなニュアンス?)は感じられない。というか、完全に標準的な英語だ。
この「問題」を考えるには、「ねん」を取った形を思い浮かべてみるといい。「このぼうし ぼくのと ちがう」と言ったらどうなるか。どこにも大阪弁らしさはない(耳で聞かないかぎり)。むしろ、ほとんどの人は標準語と考えるのではないか。(姑息にも)「ねん」をつけることで(擬似)大阪弁らしくしているだけではないのか。「ねん」を付けなくても「ちゃう」と言うだけで大阪弁になるのだが。おそらく、「とってきてん」と語呂をそろえたのだろう。
この本にはちょっと「ねん」が多すぎる。
などと文句をつけたが、この本は絵本として純粋にすばらしい絵本で、おすすめです。大阪の子育て中のひとはぜひお子さんに読んであげましょう。長谷川さんの翻訳は絵とマッチしていてユーモラスで、お子さんはきゃっきゃっ言って喜ぶことでしょう。
実は、ひとつだけ疑問がある。『ちがうねん』の最後はどうなったんだろう。あのすっとぼけた小魚の運命は?
似た疑問は『どこ いったん』のラストにもあるのだけど、そちらは裏の見返しのところにヒントがあり、助かる。
3回読み返したけれど、『どこ いったん』以上の傑作だと思う。「ねん」の問題なんか、小さい(ちっさい)。
静と動のミステリ絵本
ジョン・クラッセン『どこいったん』(クレヨンハウス、2011)
ジョン・クラッセンの2つの絵本『どこ いったん』(クレヨンハウス、2011)と『ちがうねん』(クレヨンハウス、2012)は大阪は藤井寺出身の絵本作家・長谷川義史が大阪弁で翻訳している。
この両者はミステリとしてみると性格に違いがある。前者は「犯人探し」(whodunit)タイプだ。定石として犯人は読者の前に現れているのだけれど、見事に最後まで気づかせない。後者は犯人が初めから分かっている「倒叙」(inverted)タイプだ。
長谷川さんは「ちちんぷいぷい」(MBSテレビ)で時々やる紀行企画「とびだせ!えほん」に出演し、各地の風景を描いている。そのスケッチのひょうひょうとした味わいは一度みたら忘れられない。ここでは大阪弁での翻訳で絵本の新境地を開いている。
主人公とおぼしいクマの二つの相が気になる。静と動だ。ほとんどの場面でクマは手を両脇に下ろしている。静かにぬうと立つ姿からは何を考えているか、つかめない。クマは自分の帽子が行方不明になり、探し歩く。が、なかなか行方が知れない。
あるとき、パッとひらめく。そこからスイッチが入ったかのように動に転ずる。そのとき、クマは両手をふっている。
クマが両手を上げる動作はそれだけで怖ろしい。なにか暴力装置が発動したかのような緊迫感に読者はとらわれる。
クマと他の動物たちとの対話のことばは、大阪弁のせいで一貫してやわらかくひびくが、クマと犯人との関わりの部分だけ、調子が違う。一言でいってとんがっている。それも大阪弁でよく表現されている。
3回読んだけど、読むたびに印象が変わる。多様な読みを生むのは傑作のしるしだ。
怪異を超えた神話的存在
葉山 透『0能者ミナト (9)』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2015)
ダイダラボッチという名前は聞いたことがあった。宮崎駿の映画「もののけ姫」で見たことがある。
だから、大体のイメジはあったものの、本作に出てきたダイダラボッチは、もっと神話の根源に近い。そんなもの、これまで怪異相手に退治してきた御蔭神道や総本山でも、まったく無理だ。歯が立たない。
身長2,000mなんて富士山の半分以上の高さだし、日本全国に神出鬼没となると対応がむずかしい。しかも、実害を与える本体部分と、被害の幻影を見せるまぼろし部分とがあり、どちらが出てくるか分からない。
そこで0能者ミナトの出番だ。彼がいったいどんな方法で解決するのか、興味津々で読みすすめると、古代と現代のそれぞれ最もディープなアプローチをとる。 つまり、本質の最奥部にまっしぐらの、いわれてみれば正攻法のど真ん中だ。それだけに、だれも思いつかなかった。古事記神話における世界創造の場面の、あ る兵器と、量子力学的思考から導かれた、「天使と悪魔」(ダン・ブラウン)ばりの超科学的方法との二つだ。
常識的人間には奇想天外な方法に見える。ミナト本人も100%成功の確信はない。数パーセントの不安がのこる。失敗すれば、日本は終わりだ。いったいどうなるのか。最後まで惹きつけられる。
遺伝の法則を復習しよう
葉山 透『0能者ミナト (8)』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2014)
霊能力などによらず、論理と理性で怪異の問題を解くがゆえに、その筋では評判の悪い湊が主人公のシリーズも第8巻まで来た。今回の怪異事件は人里離れた館で発見されるふたりの赤ん坊に端を発する。
そのふたりは怪異の子ではないか。つまりその子らそのものが怪異ではないかと噂になる。ふたりをあずかっていた神道側と仏教側に突然その噂を裏づける資料がわたり、両者はふたりを怪異として排斥にかかる。
そこから事件は急展開する。ふたりは追い詰められて逃げる。もともと愛し合っていたふたりの一夜の契りから、予想通りというべきか、怪異の子が1日で生ま れる。その怪異の子の強いこと。神道・仏教両方の能力者が束になってかかっても敵わない。おまけに、両者のなかに怪異に変ずる者が続出する。
ところが、事件を担当した湊は、ふたりは人間だという。遺伝の法則により今回は怪異が生まれたというのだ。
この謎解きにはうならされる。そこから事態はさらに意外な方向へ展開し、そもそもこのふたりが生まれた起源にまで行きつく。
今回のテーマは、怪異と人間の遺伝子が交わればどう遺伝するかという問題だったけれども、この遺伝法則はほかのすべてにも原理的に当てはまる。常に冷静に問題を考える必要があることを痛感させられる。
ストーリーとしては第一話「劣」だけでもよかった。無理に長編にする必要はなかったのではないか。
比較神話学と詩的直観
アレクサンドル・アレクセビッチ ワノフスキー『火山と日本の神話』(桃山堂、2016)
亡命ロシア人として日本にくらしたアレクサンドル・ワノフスキー(1874-1967)の著作『火山と太陽』(1955)を収め、多角的に検討した書。主 として古事記の新解釈を行い、古事記の創世神話は女神イザナミを火山神とする神話であると読み解く。ワノフスキー自身はロシアでは理工系の大学教育を受け た革命家であり、古事記研究の分野ではアマチュアである。古事記研究にかかわるさまざまの古今の日本語文献は翻訳者ミハイル・グリゴーリエフの協力をあお いで読み進めた。
ワノフスキーは古事記を比較神話学的な観点からみる。そういうことは日本人もやるけれども、ロシア人ならではの視点がうかがえる。その最たるものが、古事 記の神話を「二つの異なった神話的体系、一つはメソポタミヤとその起源を等しくする聖書神話から持ち込まれた体系、もう一つは火山的自然現象の影響の下 で、日本において起こった体系、この二つの体系の相互作用の成果である」と見る観点だ(76頁)。
本書の議論のほぼすべては後者を軸とする。ところが、もう一つの柱である前者については、この箇所以外にほとんど言及がない。これはおかしなことではないか。ワノフスキーの古事記研究を正当に評価するなら、両者はバランスをもって検討すべきではないか。
おそらくは、そこを掘下げると、日本ではトンデモ本に分類されて、本書自体が無視されてしまうのを恐れたのだろう。だから、ワノフスキー説にコメントを加 える学者たちも、その点はまったくふれない。ふれるとしたらワノフスキーの詩的感性くらいだ。確かに、詩人のような直観でもって日本の火山現象と古事記と を結びつけた面はある。それでも、なぜ前者を閑却したのかは疑問である。それくらいの勇気をもたなければ、おそらく本書は決定的なインパクトをもち得ない だろう。それだけでなく、ワノフスキー研究としても不完全である。火山の方は詩的直観ということで黒白がつかないとしても、前者の方はいくらでも考察や研 究が可能であり、おそらくは何らかの確かな結論が導きだし得る。
- 作者: アレクサンドル・アレクセビッチワノフスキー,鎌田東二,野村律夫,保立道久,蒲池明弘
- 出版社/メーカー: 桃山堂
- 発売日: 2016/02/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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切り札をあと2枚切る衝撃の展開
『探偵の鑑定1』の続き。
※『1』未読の人はご注意ください。
『1』で「探偵の探偵」玲奈と、「万能鑑定士」莉子という2枚の切り札を切った著者。二大人気シリーズの主人公を合流させた展開に驚かされた。
が、『2』ではさらに驚かされることになる。松岡圭佑には人気シリーズが多数あるが、その主人公たちはいずれもスペシャルな能力の持ち主。玲奈と莉子だけ でもすごいのに、さらにあと2枚の切り札が別シリーズから切られるなどという事態は、読者のだれも想像もしなかったに違いない。
その別の2シリーズの主人公とは「特等添乗員」絢奈と、「水鏡推理」瑞希。
あらためて4シリーズの特色を振返ると、「万能鑑定士」はあらゆる物の鑑定にかかわる知識が、「特等添乗員」は旅行にまつわるあらゆる事柄への柔軟な閃き が、「水鏡推理」は判断推理の冴えが、それぞれテーマとなっていた。「探偵の探偵」だけは暴力を中心とする点で以上3シリーズとは異質で、ヤクザまがいの 探偵業にからむ裏の知識が鍵をにぎる。
これら性格の違う4シリーズがいったいどうやって一つのプロットに収まるのだろうと、だれしも思うところだが、著者はそれを見事にやってのける。精密な構成のもと、緻密に組み上げられた展開には息を呑む。
著者はインタビューで、これらの登場人物を用意すると、あとは勝手に動き出したと語る。そうなれば、作家にとっての醍醐味だろう。
探偵事務所スマ・リサーチの社長の須磨は最後は桐島と二人で暴力団に対決しようとする。そのために、他の社員は全員、安全圏に追い払ったつもりでいた。ところが——。須磨はこう話す。
みな力になろうとしている。意外かつ異常な事態だった。それでも憂愁が情緒的に発酵し、かえって歓びに似た感情を生じさせる。
この須磨対社員の構図は、そのまま本作の究極の目的と、全主人公との関係に当てはまる。全員がある一つのことを目指して協同するのだ。ミステリにあり得ないくらいの、そう、まるで『指輪物語』の「旅の仲間」のような、高揚した連帯感がある。たぐいまれな作品だ。
人気2シリーズのヒロイン豪華共演
探偵の探偵、玲奈の世界に万能鑑定士Q、莉子がからむ。このあり得ない設定は、いわば著者の得意技だ。そこまでは想定の範囲内だったけど、読んでみて、うならされた。まさか、こうなるとは。
どうやら、本作で2シリーズも終わりを迎えるらしい。まさに、それにふさわしい圧巻の読みごたえだ。続篇の「2」の発行が待ち遠しい。
全体の視点人物は玲奈のほうだ。みずからの妹をめぐる事件がきっかけで対探偵課を探偵社に作らせた玲奈。今作では玲奈を迎えた探偵社の社長の過去も関わる。『探偵の探偵』シリーズ未読の読者はシリーズを読み終えてから本作を読むほうがいい。
『万能の鑑定士Q』シリーズのほうは、シリーズの第1、第2巻が未読の場合、最低でも、それらは読んでから本作を読むほうがいい。Q、つまり莉子の存在が本作の鍵をにぎる。
以上のように、これまで作者のどの作品を読んできたかによって注意点はあるものの、それらをぜんぶクリアする読者には、文句なしにオススメできる。会心の作品だ。
物語はエルメスの高級バッグ、バーキンの底に開けられた不可解な穴から始まる。バーキンを利用して詐欺をはたらく謎の女。その背後にちらつく暴力団の影。 バッグの鑑定を通じて事件に巻き込まれる莉子。詐欺の被害男性から調査を依頼される探偵社。これらが複雑にからまってゆき、最後は急激な加速をみせる。は たして、事件のゆくえは。