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起源神話の脱構築━━もうひとつのプラハを幻視する

ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』

 

チェコの作家ミハル・アイヴァスが1993年に書き2005年に大幅に改訂した小説。mythopoeia という言葉があるが、まさにそのような、神話的な詩とも詩的神話ともいえる作品。1949年10月30日プラハ生まれだが父親はクリミア出身のカライム人、即ちハザールの末裔だ。アイヴァスは同じ10月30日生まれ(1885年)の詩人エズラ・パウンドにも似て、基本的には詩人の資質を有する。アイヴァスは詩集『ホテル・インターコンチネンタルの殺人』(1989年)でデビューした。

主人公の「私」がある日、古書店で目にした謎の文字で書かれた書物をきっかけとして、プラハの裏に存在するもうひとつのプラハをめぐる冒険が綴られる。危険な目に何度も会うが、それでも「私」はもうひとつの街へ向かう。なぜだろう。

最大の動機はみずからの起源神話の中心地にたどり着きたいという願望だ。そのヴェクトルが故郷への「帰還」の問題として哲学的・神話学的・詩的に展開される。もうひとつの街の住人たちと対話する中で、その「異界」への扉が日常生活のすぐそばに開いていることが判ってくる。たとえば、カフェ・スラヴィアの地下トイレのドアの外はもう異界なのだ。

プラハもロンドンもふしぎにトイレは地下だ。どうしてなのだろう。下水道の関係かもしれないが、「地下トイレに連なる階段」が異界への入り口というのは、今度ヨーロッパへ行った時には、意識してしまいそうだ。

起源神話を肯定するのでなく、それを解体し、別のものへと組立て直す。「私」に対して給仕の娘、実はもうひとつの街の住人アルヴェイラは「帰還は不道徳だ」と断言する。帰還したと思っても、その「故郷」には怪物がいると。実際、小説中にサメやエイや虎など獰猛な動物が現れる。それだけでなく、「私」はヘリコプターにも追いかけられる。

空間と時間の感覚が、現代のプラハから薄い膜ひとつ隔てたところで、完全に別のものになってしまう。最初は「私」は現実のプラハにしょっちゅう戻ってくるが、そのうちにあちらのプラハでの滞在時間が長くなってくると、読者の感覚もかなり変容する感じを味わう。

翻訳は悪くないが、古代ギリシアのノモス(法)のことが分っていないのと、「司祭」の語を頻繁に使うのには興ざめだ。後者はせめて「祭司」とすべきだ。翻訳に調子を狂わされることがなければ、おそらく満点の作品。

 

 

もうひとつの街

もうひとつの街

 

 

絵解きは謎解きに通じる━━漢字の絵解きの面白さ

牧野恭仁雄『みんなで読み解く漢字のなりたち2 人の姿からうまれた漢字 みんなで読み解く漢字のなりたちシリーズ

 

 ふだん使う漢字は300の絵の組合せから成る。そういう観点から漢字を解き明かす「絵解き」はまだ新しい分野だという。

 漢字の成立ちは今の楷書だけ眺めてもわからないし、楷書から理屈を組立てても間違える。

 いい例が「人」という字だ。俗解で人と人とが支えあう字などという。実はもとは一人の絵なのだ。

 つまり、今の楷書の形の漢字だけを見ていては絵解きができないことになる。

 絵に近い、古い字の形を見なければならない。でも、見ても、絵として解けるとはかぎらない。そこに面白さも、またある。まだ確立した分野ではないのだ。そう聞くと、じゃ、自分もひとつ、やってみるかという気がおきてくる。

 この「みんなで読み解く漢字のなりたち」はシリーズになっているが、本書はその第2巻で、「人の姿からうまれた漢字」をあつかう。

 本書の「絵解き」の基本原理が巻末に説明してある。なかなか面白い。

 「主」はもとはかがり火。照明スタンドだ。そこから、「動かない」「まっすぐ」の意味が出てくる。

 左に馬を配すると「駐」の字。もとは「馬をとめる」の意味。いまはもっぱら車をとめることになる。

 にんべんがつくと「住」の字。「人が動かない」意味になる。

 さんずいなら「注」の字。「みずをまっすぐ」という意味だ。

 ごんべんがつくと「註」の字。「〈言う〉が動かない」ことから「書きとめる」意になる。

 きへんなら「柱」の字。「木がまっすぐ」「動かない」という意味だ。

 こうやって見てゆくと、「絵解き」はまことに謎解きに通じることがわかる。本書でも、定説がないケースは、「と思われる」と書いてある(亢、王、皇など)。まだまだ謎が多いのだ。

 意外だったのが「話」の字だ。「内容のある言葉」という意味だという。右側は実は「深く内容のあること」を表す字だ。舌とは違うのだ。見かけは似ているけれど。

 意外といえば「鄰」の字もそうだ。「接しているたくさんの地域」を表す。本来はこの字なのだ。左右をひっくり返した「隣」はおかしな字なのだという。

 「鬼」の字がおもしろい。古い字はやせた幽霊の絵だ。そこから、「あたま」「かたまり」「つかみにくい」を表す。

 「云」という雲を表す字と組合わせると「魂」の字になる。「つかみようがない(精神)」の意味だ。

 「しびれる」ことを表す「麻」と合わせると「魔」の字になる。「幽霊みたいに実体がわからないもの」の意だ。

 もう一つ。「見えにくい」ことを表す「未」と組合わせると「魅」の字になる。「つかみにくく、神秘的である」ことを意味する。

 本書のようなアプローチを、別の角度から漢字の成立ちを考えている笹原宏之のようなやり方と比べてみても、面白いだろう。

 

 

 

読んでいる間、妙にドキドキする小説

川上弘美センセイの鞄

 

女性作家の作品で女性が「用を足す」場面が印象に残る小説はめずらしい。評者が知る限りでもあと一つしかない(ジェニファ・イーガン)。

この「用足し」が小説の中の重要な場面に現れる。たいがい、主人公の女性とその先生とが、微妙に交叉しそうで交叉しない場面で、妙なタイミングで主人公が便所に行く。その結果、ふたりの関係が進展するようにみえるときもあれば、表面上はあまり関係ないように見えることもある。どうにも不思議だ。

この女性は30代後半の独身女性。先生はかつて古文を習った恩師で高齢の独身男性(60代後半か70代)。このふたりが偶然、駅前の飲み屋で出会ったところから交際が始まる。

男女がぎこちなくデートするときに用足しに中座するというのは、その中座する人が、心中、ある種の緊張をかかえていることを表すのか、それとも単なる生理現象か。

作者の描き方を見ていると、そのへんが微妙で、読んでいるほうも、その必要はないのに、なんだかどきどきしてくる。

このふたりの関係は、だいたいにおいて雲をつかむような感じなのだが、実体がないかというと、そうでもなく、その手ごたえが確かに感じ取れるような文体になっている。最後のほうに、ふたりが肉体をともなわずに出会う夢幻的な場面が現れるが、それは明らかにその場の空気をまぼろしのように描こうとしている。ふつうだと、写実的な小説にそんなシーンが現れてはおかしいのだが、本小説の場合、それほどおかしい感じがしない。あくまで自然な流れに感じられるのだ。

英訳されて、米国と英国で別々の題で出版されている。これがなかなかの評判のようだ。翻訳されても川上弘美の文体が、あるていど、伝わっているということなのだろう。

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

1904年6月16日ダブリンの一日

ジョイス、バラエティアートワークス『ユリシーズ(まんがで読破)』

 

 世に言う「ブルームズデー」をえがくジョイスの小説をまんが化したもの。382ページあるけれども、おもしろいのでまったく退屈しない。

 アイルランド・ダブリンの1904年6月16日の一日をえがく。世界ではロシアが戦争をしているころで、おかげでアイルランドの景気はよい。

 この一日にまるで人の一生があり、すべての一日に一生と同じ価値があると感じ、その一日のできごと、ダブリンの風景、そこに暮らす人々を文章で微細に描写する、そしてそれらをユリシーズオデュッセウス)の冒険神話に対応させることを、文学青年スティーヴンは思いつく。

 主人公はユダヤ人の広告取りレオポルド・ブルーム。妻のソプラノ歌手マリアン・ブルーム(愛称モリー)と興行師ヒュー・ボイランとの浮気を疑っている。

 もう一人の主人公が私立学校の教師で文学を志すスティーヴン・デダラス(ディーダラス)。ジョイスがモデルともいわれる。彼が悪友の医学生マラカイ・マリガンらと交わす会話が深遠でおもしろい。

 小説はスティーヴンとマラカイが暮らすサンディ・コーヴのマーテロ塔の朝から始まり、ブルーム家の夜で終わる。その間のたった一日の何気ない日常の風景に、神話に匹敵する物語が隠されていることをジョイスの類稀な洞察力がえがきだす。

 第一部「テレマコスは苦悩する」から第二部「オデュッセウスは流浪する」の半ばくらいまでは、小説のまんが化として新鮮な驚きの連続だ。第二部の半ばから第三部にかけてはやや駆け足の感がある。最後の章「ペネロペー」の有名なモリーの独白は殆どまんがに描かれていない。もっとも、実験性の強いこの部分はまんが化することがおそらく不可能だと思われる。

 

ユリシーズ ─まんがで読破─

ユリシーズ ─まんがで読破─

 

 

三ツ鐘署が舞台の読ませる短編ミステリ集

横山秀夫『深追い』

 

 横山秀夫は短編でも抜群のストーリーテラーだ。

 例えば、冒頭の表題作。「深追い」とは刑事のある種の習性を示唆する何とも地味なタイトルで、正直あまり期待せずに読み始める。ところが、物語が進むにつれて「深追い」の真の意味がわかってきて驚かされ、最後は唸らされる。ポケベルというほぼ絶滅した通信機器がこの話の謎に大きく関係するので、知らない人は現代史の豆知識として予め調べておいたほうが絶対に楽しめる。ちなみに、国語辞書で「ポケットベル」を引くと、呼び出し専用の小型受信機などと説明している。

 次の「引き継ぎ」は泥棒刑事たちの検挙競争の話だ。盗っ人を捕まえるのを専門にしている刑事たちが検挙の数を競い合うという、警察関係者以外はだれも興奮しないような物語に見え、やや興醒めする。ところが、大物泥棒をとうとう捕まえた、その場面で思わぬ転換が起きる。隠された真の物語がそこから始まるのだ。ふつうは犯人逮捕がクライマックスなのに、この展開には驚く。

 というふうに、一見するとあまり期待が持てないような書き出しから一転して警察小説の醍醐味へと、短編のスペースの中で見事に持ってゆく。その技量に脱帽させられる。

 全部で七編収められている。中に事件らしい事件も起こらない一風変わった短編がある。最後の「人ごと」だ。三ツ鐘署の会計課に「草花博士」とあだ名される西脇課長がいる。警察官でなく一般職員だ。本務とは違うだろうが草花に関わることで相談を持ち込まれたりする。轢き逃げされた男の身元が割れず、ズボンの折り返しの中から見つかった種の鑑定を頼まれるなど。

 

深追い (新潮文庫)

深追い (新潮文庫)

 

 

 会計課の遺失物係に届いた小銭入れに花屋の会員証があった。他には小銭が六百二十七円。西脇は知っている店なので自分が落とし主を調査することにする。ところが、花屋で聞いた会員証の主はその住所にいなかった。話は意外な展開をし、花をやる人間ならではの機微が人情にも通じる印象的な作品だ。

 

第六回創元SF短編賞(2015)受賞作

宮澤伊織『神々の歩法

 

 うーん。これが受賞作かというのが第一印象。

 ニーナの運命が気になるというのが第二印象。

 英語の発音がおかし過ぎて唖然というのが第三印象。

 そのほか、作品ではないが審査員の短編観に大丈夫かと思った。これが判った以上、今後この人たちが推す短編は短編と思わないことにする。結局、この人たちは長編の世界に住む人たちなんだ。

 結論。この審査員にしてこの受賞作あり。考えてみるとごく自然な成り行きではあった。(もっとも、事情はもっと単純で、審査員の日下三蔵が言うとおり、今回は応募作に〈突出して個性的な作品が見当たらなかった〉ということなのだろう。)

 物語を審査員の大森望が〈米国の戦争サイボーグ部隊が、壊滅した北京の廃墟に派遣され、ユーラシア大陸に破壊をもたらしている神のごとき超人に戦いを挑む〉SFアクションとまとめている。大森は戦闘のディテールを〈さすがにプロの腕前〉と褒めるが評者にはこの戦闘場面が一番つまらなかった。戦闘が進んでいく緊迫感や得体の知れぬ恐怖などがなく、数学的興奮(?)が味わえなかった。この〈神のごとき超人〉は〈高次幾何存在〉であり、次元の差や虚数方向の攻撃手段などが次々に出てくるが、説得力に乏しい。

 むしろ、一番おもしろいのは踊りによる対決だ。これは戦闘場面の前に起こる。ここの着想は秀逸。戦いの前も、都市の破壊の前も、この〈高次幾何存在〉は踊る。それには意味がある。彼らは〈重なり合う無数の……パターン、とでも言うしかないもので構成されててね、そのパターンに従って身体を動かすことで、この世界の外からパワーを得ているの。それがあの踊り〉とニーナは説明する。この踊りは戦う相手に応じて特化された踊りだ。だから、予期せぬ攻撃を受けると対応が遅れることがある。う

 このニーナは凄惨な戦いの現場に天から舞い降りた天使のような存在なのだが、ニーナ自身も悲惨な過去を秘めているらしい。だから最後は米軍へのこれ以上の協力を拒み去ってゆく。でも、これがシリーズ化されれば、なんとなく戻ってきそうだ。

 どうも審査員たちの、長編の一部としての短編、という概念に当てはまりすぎているのが評者には不満だ。短編は必ずその前後を感じさせるものでなくてはならないのか。それは始めに長編ありきの考え方ではないか。アイルランドスコットランドのような短編王国では始めも終わりもなく短編は短編なのだ。それ以外の何者でもない。長編小説とはまったく違う小説ジャンルである。そのような王国では短編を書けるのが真の作家である。だから、逆に長編の質を測るために短編なみの質が一貫して維持されているかどうかが問題にされたりする。英米の短編小説をよく読んでいる村上春樹はだから短編が非常にすばらしい。「象の消滅」の英訳が代表作とみなされるのは当然だ。